雑談散歩

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藤沢周平の短篇小説「おとくの神」は逆転する神の物語

土器人形のイラスト


小説の題名になっている「おとくの神」とは、おとくが大事にしている土器人形のことである。
夫の仙吉と喧嘩して不安な気持ちに襲われたときに、おとくはその人形を茶箪笥から取り出して、手でなでる。

すると、不思議に気持ちが落ち着く。
土器人形は、おとくにとって霊験あらたかな神様のような存在なのである。

その人形は、二人が知り合ったころ、夜店で仙吉がおとくに買ってくれたものであった。
人形を手に取れば、おとくは、かつての仙吉のやさしさを思い出すことができた。
人形さえあれば、乱暴で頼りない亭主との暮らしを、辛うじて堪えることができたのだった。

仙吉は、ダメな亭主だった。
仕事が長続きしなかった。
暮らしを立てるために、身体の大きなおとくは、力仕事の日雇いをしていた。
だが、日雇い仕事をつらいと思ったことはなかった。

そんなある日、仙吉は、自分に女ができたので別れようと、おとくに告げる。
仙吉は、おとくの説得を聞き入れず、もみ合いの最中に、おとくが手に持っていた土器人形を割ってしまった。
土器人形の四散は、おとくの仙吉に対する信頼や、ふたりの大事な思い出が砕け散ってしまったことを意味している。

作者は、この物語で、仙吉の自分勝手な行いを非難し、仙吉が「愛の象徴」を破壊したことは大きな過ちであったと説いているのであろうか。

私は、それとは違う読み方をしている。

小説は、道徳や教訓を学ぶ教科書ではない。
いかに読者を驚かせ、楽しませるかが小説の生命だと思う。
そのために作者は、様々な工夫や仕掛けを凝らすはずである。

この小説の工夫とは、まず大女のおとくを「不格好で冴えない女」として登場させ、次第に彼女の魅力を浮かび上がらせていく構成である。

最初読者は、仙吉と似たような目で、おとくを見ることだろう。
力仕事で真っ黒に日焼けした大女のおとくは、男からは好感を持たれにくい。

だが読み進めていくうちに、読者はおとくの魅力に気がつくのだ。
控えめで優しい気質。
情熱的な愛情表現。
可愛らしい女性のしぐさ。
普請場ではたらく同僚の熊蔵が、ちょっかいを出そうとするほど、おとくは男の目を引くいい女なのだ。

なのに、おとく自信と亭主の仙吉は、おとくの魅力に気付いていない。
と同時に、おとくは、仙吉のいい加減さにも気付いていない。
心のどこかで、仙吉を信頼しているのだ。

大女のおとくに、所帯を持とうと言ってくれた頃の仙吉を、忘れられないでいる。

そんな仙吉にいつまでも未練を感じているのは、土器人形の「力」であることを作者は示している。

作者は、土器人形を、愛の象徴であるかのごとく読者に思わせ、最後に土器人形に対して違うイメージを暗示している。

それは、小説には明言されていない。

だが、物語を読めば、自ずと浮かび上がるイメージである。
当初とは逆転するイメージ。

「おとくの神」である貧相な土器人形は、実は貧乏神であったのだ。
この神を信仰しているうちは、おとくは幸せにはなれない。
女房を食い物にする仙吉によって、身も心も滅ぼしてしまうことが予想される。

だが、土器人形が砕け散ったことによって、おとくは土器人形の呪縛から解放されたのである。
だから、いくら仙吉がすがっても、もうおとくは過去を振り返らない。

おとくは、独りでも立派にやっていける女である。
おとくは、仙吉を振り払って、自身の未来に向かって、歩み始める。

おとくの人生を救うために、「おとくの貧乏神」を粉砕した「秘かなミステリー」を、藤沢周平はこの小説に仕掛けた。
そうブログ管理人は感じている。

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