芭蕉の閉鎖的な着物「裸にはまだ衣更着の嵐哉」

「撰集抄(せんじゅうしょう)」という説話集がある。
これは、江戸時代の頃まで、西行のオリジナルと信じられていた。
ところが、西行が没してから後の人が西行に託して書いたものだと判明。
現代では作者不詳となっているという。
その「撰集抄」にある説話をもとに、芭蕉が「笈の小文」伊勢神宮参拝の際に詠んだものが以下の句だと言われている。

裸にはまだ衣更着(きさらぎ)の嵐哉
松尾芭蕉

ネットで調べたら、芭蕉が、この句の「ネタ」にした「撰集抄」にある説話(伝承)とは次のような内容である。

その昔、増賀上人という方がおられた。
増賀上人が伊勢神宮を参拝したとき、私欲を捨てろという神のお告げがあった。
そこで、増賀上人は、着ていたものを全部脱いで門前の乞食に与え、裸になって帰途についたという。

増賀上人とは、名誉と利益を追い求める気持ちを捨てるために、狂人をよそおい奇行を繰り返した。
それは、仏道修行を貫くためで、そのため、高僧と言われている方。
その生き方が、西行や芭蕉に慕われていたという。

芭蕉は、伊勢神宮での増賀上人の、伝承にあるシーンを思い描いて、この句を作ったのだろう。

衣更着(如月)は旧暦の2月。
現代の新暦では3月頃。
三重県の伊勢地方では梅が咲く時期ではあるが、まだまだ寒さが厳しい。
日によっては、衣をさらに一枚重ね着しなければならないほど気温の低いときもある。

たとえ神のお告げがあっても、衣更着のこの時期、私には増賀上人のように裸になることはとうてい出来ない、と芭蕉は句に詠んでいるように思われる。
そう句に詠んで、増賀上人のことを偲んでいるようにも感じられる。

芭蕉は、「何の木の花とはしらず匂哉」の句で西行のことを偲び、今また「裸にはまだ衣更着の嵐哉」の句で増賀上人のことを偲んだのだ。
西行も増賀上人も、旅や不定住に、生きる道を探っていた人だった。

さて、「裸にはまだ衣更着の嵐哉」という句だけを、何の前置きもなしに示されたら、どういう感想を持つだろうか。
芭蕉の句には、前書きや、句の成り立ちについての解説などがついていることが少なくない。
それによって読者は、半ば、その句のイメージを与えられていることになる。

まったく情報が無い状態で、この句に接したら、どういうイメージが広がるのか。
それを考えてみるのも面白い。

「裸にはまだ衣更着の嵐哉」
句全体の調子が良いのは韻を踏んでいるからか。
「はだか」と「まだ」、「きさらぎ」と「あらし」。

「嵐」とは春の嵐のことなのだろう。
春めいてはきたが、裸を風にさらすには、衣更着のこの時期では、まだ寒くてかなわない。
更に衣を重ね着する如月なのに裸でいるなんてとんでもないというイメージ。

結局、増賀上人の伝承的エピソードを知らなければ、「裸」という言葉に対するイメージはあまり広がらない。
句会というサロンのメンバーや、門人という芭蕉グループの中でしか、光彩を放たない「句」もあると言うことか・・・・・。

もし芭蕉に、一般に対して開かれた句と、事情通を対象にしてのみ作られた句というものがあるとしたら、「衣更着」の句は後者ということになるだろう。
芭蕉門人グループは、事情通として一般との差別化を図ることで、メンバーとしての自尊心を満足させているようにも思われる。

芭蕉は、そういう閉鎖的な着物を捨てて、裸になりたいと思っていたのか?
だが、これは私の希望的な仮定。
そういう風に仮定すると、「裸にはまだ衣更着の嵐哉」は、また、違ったイメージになってくる。

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