「此山のかなしさ告よ野老掘」松尾芭蕉

句の前書きに、菩提山(ぼだいせん)とある。
そこで、「伊勢 菩提山」で検索してみると、「菩提山」とは「菩提山神宮寺」のことだとわかる。

今度は「菩提山神宮寺」で検索。
「観光三重」というサイトの、ふるさと三重、再発見の旅>コース一覧>コース詳細というページに「菩提山神宮寺 跡」という項目があった。
以下にその記事を抜粋。

「県営体育館の北東に位置する岩井田山の山麓に神宮寺跡があります。今はその名残として石垣、土塁しか現存しておりません。神宮寺の創立は天平十六年(744)聖武天皇の勅願により僧行基が創建したと伝えられています。その後、寺運が傾き文治元年(1185)に良仁によって再建されたといわれています。弘長二年(1262)堂宇が火災にあい全て焼失され、宝暦十年(1760)朝熊山明王院の尊隆の努力によって再建されたといわれています。惜しくも明治二年に廃寺となってしまいました。背後の屋根には古墳時代後期の横穴式石室の丸山古墳群(四基)があります。」

芭蕉が「笈の小文」の旅で、「菩提山神宮寺」を訪れたのは1688年であるから、その頃は、上記弘長二年(1262年)の火災で全て焼失したままの廃墟となっていたようだ。

芭蕉が「笈の小文」の旅で廃墟の寺を訪れたのは、これが二度目。
一度目は、「丈六にかげろふ高し石の上」の句を詠んだ、伊賀国阿波の庄にある「護峰山新大仏寺」。

「護峰山新大仏寺」で芭蕉は、廃墟の何もない石の台座の上に尊像を見出そうとした。
二度目の廃墟であるここ「菩提山神宮寺」では、「菩提山」の哀しさを告げよと詠っているばかり。

此山(このやま)のかなしさ告(つげ)よ野老掘(ところほり)
松尾芭蕉

此山(このやま)とは、神宮寺の廃墟がある「岩井田山」の山麓。
野老(ところ)とは、ユリ目ヤマノイモ科ヤマノイモ属の蔓性多年草のこと。
野老の根は灰汁抜きをすれば食べられるという。
野老堀(ところほり)とは野老の採取者のこと。

おそらく野老堀は、長年にわたって、この山で野老の採取を行っていたと考えられる。
山菜採りは、その人の熟知している山で採取活動を行うことが多い。

芭蕉は、「このあたりのことが詳しい山菜採りに、かつては立派だった菩提山神宮寺が廃墟になってしまった訳を、知っているなら私に伝えておくれ。」というような呼びかけの形の「句」を詠んでいる。

その昔、参拝者で賑わっていた神宮寺が、今は建物の姿も無く、廃墟となって草深い山にひっそりと埋もれている。
訪れる者は山菜採りだけ。
かつてここが、多くの人達を呼び寄せた場所であったことを思えば哀しさが募るばかり、というようなイメージが思い浮かぶ。

【※神宮寺(じんぐうじ):日本で神仏習合思想に基づき、神社に附属して建てられた仏教寺院や仏堂】

<関連記事>
◆松尾芭蕉おもしろ読み:芭蕉俳諧についての記事のまとめページです。興味のある方はどうぞ

◆今まで書いた記事一覧(この文字をクリックすると展開します。)

もっと見る

スポンサードリンク