芭蕉が心引かれる「御子良子の一もとゆかし梅の花」

この句にも、前書きの言葉がある。

「神垣のうちに梅一木もなし。いかに故有事にやと神司などに尋侍れば、只何とはなし、をのづから梅一もともなくて、子良の館の後に一もと侍るよしをかたりつたふ。」

御子良子(おこらご)の一(ひと)もとゆかし梅の花
松尾芭蕉

「御子良子」とは、伊勢神宮で、 神に供える飲食物を調える童女のこと。
「子良の館」とは、その童女の詰め所。

神宮の垣根の内側に梅の木が一本もないことに気が付いた芭蕉は、神宮の職員に「これには何か訳でもあるのですか。」と尋ねた。
職員は「別に訳などない、たまたま、そうなのだ」と答え、「子良の館の後ろに一本だけ梅の木がある。」と言って教えてくれた。

芭蕉が、それを聞いて詠んだのがこの句。

「御子良子の一もとゆかし梅の花」

神に仕える清らかな童女。
彼女が居る建物の後ろに、この神宮内では一本だけの梅の木があるという。
芭蕉は、その梅の花を見たいのだが、「子良の館」へは近づけない。
見ることができないと思うと、よけいに、その梅の花の清らかさに心が惹かれてしまう。
というイメージ。

このイメージは、句の前書きを読んだから出来あがったようなもの。
伊勢神宮には、梅の木が一本しか無いという事を予備知識として読者が知らなければ、それを「ゆかし」と思う芭蕉の「憧憬」には近づけない。

だが、前書きを知らなくても、読んでイメージが広がる句になっているのではないか、とも思える。

この句の中で、イメージを広げる役割を担っているのは、「御子良子」という言葉。
その清らかな「御子良子」と、清らかな「梅の花」が、句の前と後で「対比」されている。
これは、「御子良子」と「梅の花」のダブルイメージをほのめかしているような気がする。

一本の梅の木に咲いているのは、「御子良子」であり、「梅の花」でもあるというイメージ。
そういう梅の花のような「御子良子」に、芭蕉は心を惹かれる。

ある意味で伊勢神宮は、神の存在を示す巨大な「劇場」のように思える。
その空間で、様々な役割に就いている人達が、「神の存在」を示している。
汚れを払った清い童女(御子良子)が、「神の存在」を示すシステムの奧で、幼いながらもその役を担っているということ。
そのことに対して、芭蕉は憧憬を抱いているのだろう。

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