雑談散歩

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芭蕉、吉野へ旅立つ

「笈の小文」の旅は続く。
長く逗留していた伊賀・上野や伊勢を離れ、いよいよ、吉野へ向かう芭蕉ご一行。

よし野にて桜見せふぞ檜の木笠
松尾芭蕉

この句に、前書きとして添えたのか、「乾坤無住同行二人(けんこんむじゅうどうぎょうににん)」とある。
「乾坤無住同行二人」の意味をネットのWeblio古語辞典などで調べると。

「乾坤」とは天と地のこと。
「無住」とは、仏語で、とらわれのない状態。
「同行」とは、参詣や巡礼の道連れのこと。

「乾坤無住同行二人」の現代語訳は、 天地に依りどころがない参詣の道連れ二人。

「弥生半過る程」、芭蕉は、桧の笠の内側に、「乾坤無住同行二人」と落書きして、吉野の桜見物に出発した。
「同行二人」とは、芭蕉と愛弟子の杜国(とくに:保美村に流刑中)

杜国を伊勢で出迎えて、旅の連れとして吉野に向かった芭蕉。
杜国は、「句」の師匠である芭蕉の、身の回りの世話をする童子のようになろうと、自身を「万菊丸」と名乗ったという。
ううむ・・・・・・・?!

「よし野にて桜見せふぞ檜の木笠」

私の頭の上の桧笠よ、あなたを吉野に連れて行って、見事な桜を見せて差し上げましょう、というイメージか。
杜国との旅に、ちょっと浮かれぎみ?。


草臥(くたびれ)て宿かる比(ころ)や藤の花
松尾芭蕉

夕刻が近づくにしたがって、だんだん疲れが出てきた。
そろそろ宿泊所を見つけなくてはと、あたりを眺めていると、薄紫色の藤の花が咲いている。
疲れ果ててしまったので、宿が見つからなければ、満開の藤の下で休んでもいいかなぁ、というイメージが思い浮かぶが、はたしてどうか・・・・・。


春の夜や籠リ人(こもりど)ゆかし堂の隅
松尾芭蕉

「初瀬(はつせ・はせ)」と前書きがある。
初瀬は、奈良県桜井市初瀬のこと。
初瀬山には西国三十三所第八番の長谷寺がある。
「堂の隅」とは長谷寺の御堂の隅のことか。
「籠リ人」は、寺社に泊まりこんで祈願する人のこと。
「ゆかし」とあるから、「堂の隅」に籠もっている人は女性なのか。

春の夜の月明りに照らされて、お堂の隅に人影が見える。
あの女性は、この寺に泊まりこんで、いったい何を祈願しているのだろう。
春の夜だから、その人に心惹かれてしまうのか。
「隣は何をする人ぞ」的好奇心かな。


(なお)みたし花に明行く神の顔
松尾芭蕉

前書きに「葛城山」とある。
「葛城山」とは、奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境にある「大和葛城山」のこと。
「神」とは奈良県御所市の「葛城一言主神社」に祭られている「一言主神」のこと。
「今昔物語」に登場する「一言主神」は顔が醜くかったと伝えられていた。
そのため、おのれの醜さを恥じて、昼間は隠れていて夜だけ外に出たという。
芭蕉は、そんな気弱な「一言主神」のエピソードに愛着を感じたのだろうか・・・。

周囲の花が開くとともに夜が明けていく。
そんな所にいらっしゃる「一言主神」のお顔を、やはり、拝見したいものだ。
夜が明けていく頃には、神のお顔も、花のように美しく開くのではないでしょうか・・・・。
というようなイメージか。

旅先の神様に対する、芭蕉の「挨拶句」のようにも受け取れる。
それは、「一言主神」を信仰する地元の人たちへの「挨拶句」でもあるのだ。


雲雀(ひばり)より空にやすらふ峠哉
松尾芭蕉

吉野への道中の句で、やっと空間的な広がりのあるものに出会えたような気がする。
この句で私たちは、峠から望む風景を、のびのびと楽しむことができる。
私的には、ハイキングでの、尾根歩きの楽しさが思い出されて、良い句だと思う。

この句の前書きは「三輪 多武峰」とある。
さらに、「臍峠 多武峰ヨリ龍門へ越道也」。

「三輪(みわ・みのわ)」とは、三輪そうめんで有名な現在の奈良県桜井市三輪のこと。
「多武峰(とうのみね)」は、奈良県桜井市南部にある山。談山神社(たんざんじんじゃ)がある。
「臍峠(ほそとうげ)」は、奈良県吉野町にある峠。多武峰から龍門岳の麓に出る道。

この句は、峠を登ったところで休憩しているときに詠んだものなのだろう。
見晴らしの良いポイントで、のびのびと休んでいる光景が目に浮かぶ。
峠の下の方で雲雀が鳴いているのが聞こえる。
あるいは、里のほうへ飛ぶ雲雀の姿を見たのかも知れない。

いつもは、自分の頭上にいる雲雀だが、今は自分のほうが空に近い。
そんなところまで登ってきたのだなぁ、というイメージ。
芭蕉独特の遠近感覚が感じられて、清々しいイメージになっている。

青空の下、展望の良い峠でのんびりしている芭蕉の句は、その句に接するものの気分をものんびりとさせてくれる。
この句が出てきて、良かった良かった。


龍門(りゅうもん)の花や上戸(じょうご)の土産(つと)にせん
松尾芭蕉

前書きに「龍門」とある。
「龍門」は、かつて奈良県吉野郡にあった村の名前。この村の龍門岳山腹には、高さ10メートル程の「龍門の滝」がある。

「上戸」は、酒が好きでたくさん飲める人のこと。
「土産」は、贈り物にするその土地のみやげ。

龍門の滝の周辺に咲いている花を摘んで、酒飲みのみやげにしよう、というイメージ。
滝と酒は、イメージ的につながるものがあるので、滝のそばで咲いている花は、酒飲みのみやげになるだろうということか。
それとも、滝の水分を吸い上げて美しく咲いている花は、上戸のようなものだから、この花は上戸のみやげになるだろう、ということか。


酒のみに語らんかゝる滝の花
松尾芭蕉

前述の句を作ったとき、同時に作ったものと思われる。
「滝の花」とは、滝水の落下する様を花にたとえているのだろうか。
二句とも、龍門の滝の「賞賛句」になっている。
このように、芭蕉が各名所に残した「賞賛句」は、現代では、その観光地の「キャッチコピー」となっている。
こうして、芭蕉の名が、その土地に深く刻銘される。


ほろほろと山吹ちるか滝の音
松尾芭蕉

前書きに「西河」とある。
「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」では、「西河」に「にじかう」とルビがふってある。
「西河」は、現在の奈良県吉野郡川上村西河のこと。
西河には吉野大滝という滝があるという。

この句にも、私は近景と遠景の対比を感じている。
近景は、はらはらと散る山吹の黄色い花びら。
遠景は、吉野川の急流や滝の流れ。
滝の音は、辺り一帯に轟いている。
周囲を支配しているような滝の轟音。
その轟音に閉ざされた静寂へ、散る山吹の花びら。
轟音と静寂の対比も感じられる。
色彩で言えば、山吹の鮮やかな黄色と渓流の清明な水色の対比。

それらが合わさって、風景のイメージが広がっている。

山吹が吉野川の川縁に群生していて、そのしなやかな枝先から、花びらが川面にはらはらと散って流されていく。
そんな光景も思い浮かぶ。

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