須磨の、物足りない夏の月
芭蕉は須磨に着いた。
「源氏物語」の主人公(光源氏)が見た須磨の月を、芭蕉も拝見しようとやってきたのだ。
おそらく、江戸時代の頃の名所図会等に載っていた名勝「行平(ゆきひら)月見の松」辺りで月を眺めたのだろう。
月はあれど留守のやう也須磨の夏
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「源氏物語」の主人公(光源氏)が見た須磨の月を、芭蕉も拝見しようとやってきたのだ。
おそらく、江戸時代の頃の名所図会等に載っていた名勝「行平(ゆきひら)月見の松」辺りで月を眺めたのだろう。
月はあれど留守のやう也須磨の夏
松尾芭蕉
前書きに「須磨」とある。
その須磨で、芭蕉は楽しみにしていた「須磨の月」を見たのだが・・・・。
「すまんのう、わしは夏はあかんのや、秋でないと冴えんのや。」と「須磨の月」が言ったかどうか?
それはともかくとして。
「月はあれど」と芭蕉は詠んでいる。
「・・・はあれど」とは、「・・・はともかくとしても」の意。
なにやら、「須磨の月」に対して、芭蕉が、すごく消極的になっている印象を受ける。
「留守」とは、ちょっと意外な言い回し。
(1)誰が不在なのだろう?
(2)何が不在なのだろう?
(1)の場合。
どうにかこうにか月が出ているのはともかくとしても、あたりには見物人がまるでいないじゃないか。
須磨の夏の月とは、こんなものか。
というイメージ。
はたして留守の見物人とは、誰のことを思い描いていたのか・・・。
(2)の場合。
月は一応出ているけれども、これは「須磨の月」では無いようだ。
どうも夏場だと「須磨の月」は不在のようで、残念。
というイメージ。
やはり、「須磨の月」は、秋でないと冴えんのでしょう。
月見ても物たらはずや須磨の夏
松尾芭蕉それはともかくとして。
「月はあれど」と芭蕉は詠んでいる。
「・・・はあれど」とは、「・・・はともかくとしても」の意。
なにやら、「須磨の月」に対して、芭蕉が、すごく消極的になっている印象を受ける。
「留守」とは、ちょっと意外な言い回し。
(1)誰が不在なのだろう?
(2)何が不在なのだろう?
(1)の場合。
どうにかこうにか月が出ているのはともかくとしても、あたりには見物人がまるでいないじゃないか。
須磨の夏の月とは、こんなものか。
というイメージ。
はたして留守の見物人とは、誰のことを思い描いていたのか・・・。
(2)の場合。
月は一応出ているけれども、これは「須磨の月」では無いようだ。
どうも夏場だと「須磨の月」は不在のようで、残念。
というイメージ。
やはり、「須磨の月」は、秋でないと冴えんのでしょう。
月見ても物たらはずや須磨の夏
続けて芭蕉は詠んでいる。
が、「物たらはずや」の「はず」が意味不明。
「はず」は漢字で「筈」と書いて、弓の両端の意があるから、「物足りない」と「弓の形の月」を掛けたのかも。
月を見ても、満月ではなく、弓のような形の月なので、須磨の夏は、月を見るには物足りない時期である、というイメージか。
芭蕉は、須磨の夏の月が、よっぽど気に入らなかったのだろう。
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