「笈の小文」旅の終着は蛸壺

「笈の小文」は、芭蕉の遺稿集である。
貞享4年(1687年)10月に江戸を出発し、翌年の4月まで、尾張・伊賀・伊勢・大和・紀伊を経て、須磨・明石を旅した時の紀行を、句に詠み、文章に著わしたもの。

芭蕉は、この「笈の小文」とメモした草稿を弟子の河合乙州(かわいおとくに)に預けた。
芭蕉の死後(元禄7年・1694年)、乙州は芭蕉から預かった稿本を編集し、宝永6年(1709年)に出版。

旅の順路を追って句や文章が並んでいるような編集になっているが、実際の順路は前後している箇所もあると言われている。

河合乙州については、wikipediaに以下の記載がある。

蕉門における乙州の立場は今で言う事務局長的役割を勤め、芭蕉からは厚い信頼を得、芭蕉の『自画像』や『笈の小文』関係の草稿が贈られた。元禄7年10月12日(1694年11月28日)に芭蕉逝去に際しては看取り、葬儀万端の準備を行い、姉智月と乙州の妻荷月が芭蕉の浄着を縫った。
芭蕉死去後、芭蕉の意を汲み宝永6年(1709年)『笈の小文』を刊行し、正徳5年(1715年)に随筆『それぞれ草』を刊行した。


蛸壺(たこつぼ)やはかなき夢を夏の月
松尾芭蕉

「旅人と我が名呼ばれん初時雨」で始まった芭蕉の「笈の小文」の旅は、河合乙州編では、この句で終了となる。
前書きに「明石夜泊」とある。
須磨から東へ、明石へ移動して、その夜、明石に宿をとったのか。
だが、須磨へもどって泊まったという説もある。

明石は古くから蛸の名産地として、おもに関西方面で知られていたらしい。
江戸っ子が蛸を好んで食べたかどうかは知らないが、「蛸は月夜に畑に入り、芋や大根を食べる」という言い伝えが日本各地にあるという。

イギリスではDevil fish(悪魔の魚)と忌み嫌われている蛸。
日本でも、「長足で人を巻き取り、海中に引き入れて食らう」という伝説があるくらいで、蛸に対しては、他の海の魚とは違った印象を持っていたようだ。

また蛸は、高い知能を持っていて、形を認識することや、問題を学習し解決することができると言われている。

さて、句にある「蛸壺」は明石が発祥の地であるらしい。
周辺の弥生時代の遺跡からも、「蛸壺」が発見されているという。
そのくらい明石は、古代から蛸漁の盛んなところだったのだろう。

延々と繰り返されていた蛸漁。
人々は、蛸の夢を、ひたすら食べ続けた。

芭蕉は、蛸壺の中に入っている蛸の姿を思い描いてこの句を作ったに違いない。
奇妙な形をした怜悧な生き物。
その生き物が、夜に、海の底で夢を見ている。
蛸の夢を夏の月が照らしている。

シュールと言おうか、ファンタスティックと言おうか、そんな映像が目に浮かぶ。
以下は、当ブログの管理人が空想した映像。

芭蕉は昼に、漁師の使う蛸壺を見た。
蛸にとっては居心地の良い住処なのだろうなあ、などと思いながら。

明石も須磨とならんで月見の名所。
その夜は、蛸を肴に酒を飲みながら、明石の月を眺めたのだろう。

長旅の疲れが出て、芭蕉は不思議な夢を見た。
自身が蛸の姿をして、海底の蛸壺庵の窓から、明石の月を眺めているのだ。
ああ、こういう儚いシーンも良いものだと、芭蕉は夢現に思ったのかもしれない。

芭蕉は、昼間見た蛸の目が忘れられない。
賢そうで狡そうで悲しそうな蛸の目。
今、その蛸の目で月を眺めている。

海面の波が揺らいで、夏の月が揺らいで、眠りの底に沈みそうな芭蕉の意識が揺らぐ。

この句にも、天空と地の対比があるようだ。
天空の月と、海底の、眠りの底の、蛸壺庵の蛸の目。
天空と地をつないでいるもの。
月と蛸をつないでいるものは「はかなき夢」なのだ。

芭蕉のこの空間感覚が面白い。
この空間感覚が、芭蕉の「劇」を立体的に、遠望的に、躍動的にしていると思う。

作者、主演、演出を兼ねた芭蕉シアター。
「冬の旅」の劇は、「明石の夏の月」にて終了。

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