なぜ「古池や」なのか、「古池」とは何か?
「古池や蛙飛びこむ水の音」の句の仕上がりについては、下記の逸話がある。
芭蕉は、先に「蛙飛びこむ水の音」という中七と下五の部分を作っていた。
そして、上五を何にしようと思い悩んだ。
貞亨3年の春に、江戸深川村の芭蕉庵で開かれた句合(くあわせ)でのことである。
松尾芭蕉の「古池や」の句は、この年内に発刊された「蛙合(かわずあわせ)」に収録されている。
「蛙合」は芭蕉の門人である仙化(せんか)の編集とされている。
この句合で、「蕉門十哲」の第一の門弟と言われている宝井其角(たからいきかく)は、「山吹や」にしてはどうでしょうと芭蕉に提案した。
芭蕉は、先に「蛙飛びこむ水の音」という中七と下五の部分を作っていた。
そして、上五を何にしようと思い悩んだ。
貞亨3年の春に、江戸深川村の芭蕉庵で開かれた句合(くあわせ)でのことである。
松尾芭蕉の「古池や」の句は、この年内に発刊された「蛙合(かわずあわせ)」に収録されている。
「蛙合」は芭蕉の門人である仙化(せんか)の編集とされている。
この句合で、「蕉門十哲」の第一の門弟と言われている宝井其角(たからいきかく)は、「山吹や」にしてはどうでしょうと芭蕉に提案した。
芭蕉は、その提案を採用せずに、「古池や」に決めたとされている。
この逸話は、おなじく「蕉門十哲」のひとりである各務支考(かがみしこう)が編集した「葛の松原(元禄5年刊)」に載っているという。
芭蕉が「山吹や」を採用しなかったのは、「山吹」が伝統的な和歌の世界で多く使われてきた「雅語」であるため、これを使わなかったのではということが言われている。
芭蕉は、和歌から独立した、俳諧独自の世界を築こうとしたのだ。
ところで「古池」とは何なのだろう。
現代でいう「古池」の意味は、古い池のこと。
古い池とは、古くからある池を意味している。
昔作られた池で、歴史と風格が感じられる池というイメージ。
現代では、名庭園の中の古池とあれば、訪れる人も多い。
江戸時代と今日とでは、言葉の持っているニュアンスが違うのではないだろうか。
江戸時代に使われていた「古し」には、「遠い昔のことである」という意味もある。
ということは、「古池」には、遠い昔に池であったという意味合いがあるのではないだろうか。
遠い昔は池であったが、今は池としての外観を保っていないという意味での「古池」。
ちょっと大きめの窪地に雨水が溜まったような、人の手で管理されていない荒れ放題の池。
おそらく芭蕉は、そんな侘しい世界を想定したのではあるまいか。
花鳥風月とか、雪月風花とか、そんな美意識とは相対するような世界を。
そんな世界に蛙が飛びこむ。
和歌では鳴く蛙が題材として取り上げられる。
だが、芭蕉の視点は、脚を投げ出して弧を描く蛙に向けられた。
そして「水の音」。
この、あまり優雅でない動きと音を実現させる場としての「古池」なのではあるまいか。
「古池」には、使い物にならない池というニュアンスもあったかもしれない。
この古臭くて用を成さない池に蛙が飛び込んだということは、蛙にとっては何か用があったのだろう。
蛙は、人に見捨てられたような廃墟の池に住んでいるのかもしれない。
「水の音」は、その蛙の存在証明。
「古」とは時間のこと。
時が過ぎていくとともに、朽ち果てていくということ。
やがて、池は干上がり、蛙も住めなくなる。
だが芭蕉には、まだ「水の音」が聞こえる。
雨が降れば、蛙の鳴き声も聞こえる。
古くなって朽ちていくものと、そのなかで生きているものとの対比。
相反するものが、ひとつの世界のなかで「水の音」をたてて作用しあっているという情景。
「山吹や」では描ききれない情景である。
古びたものへの共感と愛着。
朽ちていくものに対する美意識のようなもの。
そんな意識が芭蕉のなかにあって、それで「古池や」なのではあるまいか。
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◆松尾芭蕉おもしろ読み:芭蕉俳諧についての記事のまとめページです。興味のある方はどうぞ。
ところで「古池」とは何なのだろう。
現代でいう「古池」の意味は、古い池のこと。
古い池とは、古くからある池を意味している。
昔作られた池で、歴史と風格が感じられる池というイメージ。
現代では、名庭園の中の古池とあれば、訪れる人も多い。
江戸時代と今日とでは、言葉の持っているニュアンスが違うのではないだろうか。
江戸時代に使われていた「古し」には、「遠い昔のことである」という意味もある。
ということは、「古池」には、遠い昔に池であったという意味合いがあるのではないだろうか。
遠い昔は池であったが、今は池としての外観を保っていないという意味での「古池」。
ちょっと大きめの窪地に雨水が溜まったような、人の手で管理されていない荒れ放題の池。
おそらく芭蕉は、そんな侘しい世界を想定したのではあるまいか。
花鳥風月とか、雪月風花とか、そんな美意識とは相対するような世界を。
そんな世界に蛙が飛びこむ。
和歌では鳴く蛙が題材として取り上げられる。
だが、芭蕉の視点は、脚を投げ出して弧を描く蛙に向けられた。
そして「水の音」。
この、あまり優雅でない動きと音を実現させる場としての「古池」なのではあるまいか。
「古池」には、使い物にならない池というニュアンスもあったかもしれない。
この古臭くて用を成さない池に蛙が飛び込んだということは、蛙にとっては何か用があったのだろう。
蛙は、人に見捨てられたような廃墟の池に住んでいるのかもしれない。
「水の音」は、その蛙の存在証明。
「古」とは時間のこと。
時が過ぎていくとともに、朽ち果てていくということ。
やがて、池は干上がり、蛙も住めなくなる。
だが芭蕉には、まだ「水の音」が聞こえる。
雨が降れば、蛙の鳴き声も聞こえる。
古くなって朽ちていくものと、そのなかで生きているものとの対比。
相反するものが、ひとつの世界のなかで「水の音」をたてて作用しあっているという情景。
「山吹や」では描ききれない情景である。
古びたものへの共感と愛着。
朽ちていくものに対する美意識のようなもの。
そんな意識が芭蕉のなかにあって、それで「古池や」なのではあるまいか。
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