2015/11/27

なぜ芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」という句が面白いのか

松尾芭蕉の有名な句「古池や蛙飛びこむ水の音」は、「俳句」の代名詞のように言われている。
「俳句」に興味の無い方でもこの句は知っている。
というほど、世間に広く知られている。

私もこの句の淡々とした雰囲気が好きなのだが。
この句のどこが、そんなに優れているのか。
と、もし人に尋ねられても、残念ながら、私はなんとも答えられない。

「俳句」の優劣を定める秤(はかり)を、私は知らないからだ。
何よりも、「俳句」の実作者でも無い。
ただ芭蕉や蕪村の「俳句」の世界に興味を持っているだけなのである。

公園を散歩するように、私は、先人の描いた風景のなかを歩いている趣味の散歩人に過ぎない。

さて、「古池や」の句が、多くの人々に親しまれているのは、題材が身近であるからだと私は思っている。
だから、この句の情景を、多くの人が脳裏に思い描くことができる。
物思いのスクリーンに映し出して楽しむことができるのだ。

私達の目や耳や鼻は、常に何かを探っている一面がある。
見慣れないものを見ると、「あれは何だろう?」と思ったり。
良い匂いを嗅いで、「これは何の香りだろう?」と思ったり。

どこかから水の音が聞こえると、「あれは、何の水の音?」と側の人に尋ねる。
すると誰かが答える。
「おおかた、そこの古い池に蛙でも飛び込んだのだろう。」
「なあんだ、その水の音だったのか。」と尋ねた人は頷く。

そんな日常会話の文脈が、そのまま句になっている。

ところが俳諧とは、日常のことをそのまま描き出すという文芸ではない。
当たり前のことをそのまま詠んでも、読む側の好奇心は満たされない。

そのため、「俳句」には「取り合わせ」という句作の方法がある。
「取り合わせ」とは、「俳句」を作る際に、意外なもの(無関係なもの・縁の無いもの)同士を組み合わせること。
そうすることによって、限られた字数の詩である俳諧にイメージの広がりが生まれる。

たとえば芭蕉の句である「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
「蛸壺」と「夢」と「月」の組み合わせは意外性で満ちている。
それらを俳諧に組み入れて、ひとつの世界を創作する。
日常において無関係なものが、俳諧でつながりを持つことによって、日常とは別の世界が広がる。
私たちは、俳諧を読むことによって、ありきたりな日常とは別の世界に遭遇することになる。

では、「古池や蛙飛びこむ水の音」は、どうだろう。
「古池」と「蛙」と「水の音」の関係には、特別な意外性は見られない。
この句には、「取り合わせ」の方法は使われていないようである。
一見、当たり前のことがそのまま描かれている。

それが、言葉の調子が整えられ、俳諧として仕上げられている。
日常見慣れた風景でも、句として詠まれれば、なんとなく味わい深い景色に見える。
実際には、日常見慣れた風景ではないのかもしれない。

蛙の動きを目で追うなんてことは、普通の大人はあまりしない。
蛙が水面に飛び込んでたてた水の音に聞き入ることもない。
生活の場の片隅にある古池を、ゆっくり眺めることも、あまりない。

しかし、そうして日常を見る芭蕉の視点が、人々に日常の再発見をもたらしたのかもしれない。
あるいは、この句に触れた大人たちは、子ども時代のなつかしい風景を思い出したのかもしれない。

次に、この句の作者が天下の松尾芭蕉であることも、この句を有名にしている一因であると私は思っている。
あの芭蕉が「こういう句」を作ったんだってと、世間のうわさになる。
「古池や」が世間に知れ渡る。

人々が口にする「こういう句」とはどういう句なのだろう。
天と地を対比させて、イメージに広がりを持たせるような芭蕉の句。
「古池や」は、このような句では無いという意味での「こういう句」なのだ。

「荒海や佐渡に横たふ天の河」というようなダイナミックなイメージの句では無い。
「野ざらしを心に風のしむ身かな」というような、大胆な劇的台詞の句でも無い。
小さな池に小さなカエルが飛び込んだときにたてた小さな音のことを詠んだ句。

空でもない海でもない、川でも山でもない、日常的な極小の世界。
従来の句と違い、芭蕉が「こういう句」を詠んだことで、人々は「虚を突かれた」感じがしたのだろう。
それは、いままで見過ごしてきた小さな世界。
その取るに足りない世界を、天下の芭蕉が人々の目の前に突きつけたのだ。

少々驚いて、「ああ」と呻いている隙に、「古池や蛙飛びこむ水の音」が人々の頭の中に居座って動かなくなる。
それが「古池や」を有名にした一因であると私は思っている。

そこが、「古池や蛙飛びこむ水の音」という句の面白いところではなかろうか。

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