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谷間で咲いていた紅紫色のツリフネソウ

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ツリフネソウは食虫植物か? 八甲田山、城ヶ倉大橋の下の方でツリフネソウが咲いていた。
黄色いツリフネソウはキツリフネと呼ばれているが、ツリフネソウといえば、花が紅紫色のものを指す。
ムラサキツリフネとも呼ばれたりするが、標準名はツリフネソウである。
花柄から舟がぶら下がったような形の花なので、ツリフネソウ(釣舟草・吊舟草)と呼ばれているとか。
独特の花の形は、花の筒の中へ虫を誘い込む食虫植物を連想させる。
だが、ツリフネソウは食虫植物ではない。

青森市新中央埠頭のミヤコグサは、1年に2度発芽して個体を生育させ、それぞれ花を咲かせるのだろうか?

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愛犬の散歩がてら新中央埠頭へ行ったら、びっくり。
埠頭の南緑地に、ミヤコグサの姿が見当たらない。

今日から35日ほど前の7月22日には、下の写真のように一面に咲き乱れていたのに。
あのミヤコグサの群生が消えてしまっている。
ミヤコグサの開花時期は、5月~7月頃とか5月~9月頃とも言われている。
去年は雪の積もる時期まで咲いていたのだから、今日ぐらいでもまだ盛んに咲いていても良さそうなのだが。
師走にだって花を咲かせていたのだから。

景勝地「白岩森林公園」の紅葉の写真

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デジタルカメラのメモリを整理していたら、白岩森林公園の紅葉の写真が残っていた。
去年の10月18日に坂梨峠の紅葉見物へ行く途中、平川市に寄ったときのものだった。
このページにアップした写真以外にも、たくさん撮ったのだが、それは失ってしまった。
「これが白岩森林公園の白岩だ」という観光案内的な写真も撮ったのだが、それらは残念にも、何かの拍子で私が消してしまったらしい。




結局、この日は、鮮やかな紅葉に出会えなかった。
時期的に早かったのか。
去年の紅葉は全般に冴えなかったという話もあったから、そのせいか。

白岩森林公園は、平川市尾崎黒倉沢にある。
東北自動車道路黒石インターチェンジから南方向にクルマを走らせて30分ぐらいのところである。
公園内にはハイキングコースが整備されていて、自然の中を散歩するにはおすすめの場所。
136ヘクタールの広大な公園内では、山肌が白い岩になっている個所を方々で見ることができる。
白い岩は凝灰岩。
凝灰岩とは、火山灰が固結してできた岩石とのこと。
白岩森林公園の近くの火山と言えば、岩木山や八甲田山、それに十和田湖。 この白い岩は、どの火山の噴火によるものなのだろう。

季節は、やはり秋が良さそうだ。
紅葉に映える白岩がカッコいい。
白岩といっても、写真ほど白くはない。
実際に見ると、薄いグレーである。
でも、グレーの方がいい。
岩が純白だったら、なにやら人工物のようで違和感があるかもしれない。

白岩といえば、深浦の十二湖にある「日本キャニオン」の断崖の岩も白い。
こちらも凝灰岩で、スケールは白岩森林公園の白岩よりも大きい。

そして、白岩といえば、松尾芭蕉の「石山」の句が思い浮かぶ。
「石山の石より白し秋の風」
去年のこのとき、白岩森林公園に吹いていた風は何色だっただろう。
秋の風は白くなかったような気がする。
芭蕉ほどの感性がなければ、白い風を言葉にすることはできないのだ。

青森県内は、まだ8月の終わりで、紅葉には早い時期である。
だが、青森市内でも、もう秋の花が咲き始めている。
案外、今年の紅葉は、早い時期に訪れるかもしれない。







夏の匂い「市中は物のにほひや夏の月」凡兆

太宰治のエッセイ「天狗」に凡兆(ぼんちょう)の句が紹介されている。
暑い時に、ふいと思い出すのは猿簑の中にある「夏の月」である。 「天狗」は、このような書き出しで始まる。
太宰ファンは、この書き出しに魅了されて、太宰治の「読物」の世界へひきこまれていく。
凡兆の発句を上げて、流れるような文章が続く。

八重咲きのムクゲの花が、「青い森セントラルパーク」で咲いていた。

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ムクゲは一重咲きのものを多く見るが、「青い森セントラルパーク」では八重咲きのムクゲが花盛りだった。
多目的芝生広場の北側に、「青い森鉄道」の線路に沿って遊歩道がある。

もちろん、線路と遊歩道はフェンスで仕切られている。
その遊歩道の傍らに、ムクゲの木が一本立っている。
箒を逆さまに立てたような枝ぶりだから、すぐに目につく。

この逆さ箒の木が、八重咲きのムクゲである。
樹高は2.5mぐらいで、まだ小さい。
公園などに栽培されているムクゲは、剪定されて高さを抑えられているので灌木のように見える。

しかし、放置すると、八重咲きのムクゲは10メートル以上の高さに達するという。
「青い森セントラルパーク」は、管理の行き届いた公園である。
このムクゲの木が、将来高さ10メートルに達することは、まず無いであろう。





ムクゲと言えば、芭蕉の句、「道の辺の木槿は馬に喰はれけり」がある。
「野ざらし紀行」におさめられた句で、貞享元年8月の作。
松尾芭蕉41歳のときの句とされている。

この句の記事を、以前このブログに書いた。
その記事は、このブログの数ある芭蕉句の記事のなかで、比較的アクセスが多い。
ムクゲが、花として高人気であるからだろうか。

蕪村にも、ムクゲの句がある。
「朝顔にうすきゆかりの木槿かな」与謝蕪村。
蕪村にしては、えらくすました句のように私には感じられる。 また、何やら説明的である。

まるで植物学者が解説しているような。 朝顔と木槿をだぶらせるのは、くどい感じがする。
くどい句をすまして詠んでいる蕪村。 この句を詠んだ蕪村が、68歳のときに「紅梅の落花燃ゆらむ馬の糞」とうたいあげたのだから面白い。
それはそうと。 ムクゲの花を、芭蕉は馬に食わせ、蕪村は朝顔に似せた。 さて、「青い森セントラルパーク」で咲いているムクゲは、どっちのムクゲだろう。
などと、八重咲きのムクゲの花を眺めながら、考えてしまった。 天に向かって花を咲かせているムクゲは、なんとなく馬が食い付きそうな様子だなぁ。 シャリシャリという、馬の噛み音が聞こえてきそうである。










縄文時代の土器や土偶に描かれた「物語(文学)」についての雑感

朝、まだ起きたての、ぼんやりとしか見えない目をこすりながらインターネットで調べものをしていたら、「国際縄文学協会」というサイトを見つけた。

私は、このとき目に飛び込んできた「縄文学」という文字に対して奇異な感じを抱いた。 「なわぶんがく」って何だろう?と。
「なわ(縄)文学」なんていう「文学」ってあったっけ?と。

寝ぼけていた頭が、しだいに通常にもどる。
ああなんだ「縄文学」って「じょうもんがく」のことかと気づく。
でも、「なわ(縄)文学」という錯誤も面白い。
縄文土器や土偶の表面についている模様が、何かを伝えるために描かれたものなら、それは縄目文様で描かれた「なわ(縄)文学」と言えなくも無い。
通常にもどった寝ぼけ頭が、そう考えだした。

縄文土器や土偶に描かれた縄目文様が、文字や記号のように、何かを伝えるための表現であったと推察することは可能である。
その表現が、「なわ(縄)文学」なのではと、私は錯誤から得たアイデアを楽しんでいる。
最も原初的な「文学」は口伝(口承文芸)であると言われている。
たとえばアイヌ民族の口承文芸であるユーカラ(ユカラ)は、原初的な「文学」の名残であるのかもしれない。

文学と言っても、詩、小説、戯曲、エッセイなどなど多岐にわたる。
現代のように、エンターテイメント性の強いものから、哲学的なものまでさまざまである。
では、土器や土偶に描かれた「なわ(縄)文学」とはどういうものなのか。
それは、アイヌ民族のユーカラ(ユカラ)のように、叙事詩的なものであったのではないかと私は空想している。
叙事詩とは、その民族の神話や歴史、英雄的な人物の物語のこと。
神話や歴史や英雄譚は、時間的な軸に沿って語られる。

ところで、時間の概念が、はっきりしていない時代ではどうだろうか。
時とか日とか暦とかの概念が無い世界。
時の過ぎるのを、物質の変化としてだけとらえていた世界ではどうだろうか。
そういう世界での「文学」は、算数的な時間の概念を持った世界とは違う文脈を持っているのではないだろうか。

口伝では表現できない「文学」の世界。
それが「なわ(縄)文学」。
それが、土器や土偶に描かれた縄目模様の内容なのでは。
土器とは、そのような「物語」を入れる器でもあったのかもしれない。
土偶とは、そのような「物語」を体現している偶像であったのかもしれない。

「物語(文学…

「青い森セントラルパーク」に広がる癒しの空間、アカツメクサが群生する緑地

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青森市にある公園「青い森セントラルパーク」でアカツメクサが、鮮やかに群生している。
緑地帯の東端がアカツメクサの群生地。
アカツメクサに癒されたいのなら、「青い森セントラルパーク」に来ればいい。
東西に長い公園の中央から西側に、150台駐車可能な無料駐車場がある。

この花は何?秋の花シュウメイギクさ、でも花弁は無いんだぜ

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街路樹の根元で、見知らぬ花が咲いていた。
野草のように見えるが、園芸種のような外観。
それに、街路樹の根元は、きれいに整備されていたから、どなたかが植えたものなのだろう。
この花をネットで調べてみたら、やはり園芸種であった。
シュウメイギクという名前。
園芸種だが、どこか野草っぽいので、私の野草コレクションに入れることにした。

雨が不足気味だったせいか、今年はかなり早いカツラの黄葉

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青森市は、8月に入ってから15日まで雨らしい雨が降っていない。
「青森ねぶた祭」期間中(8月2日~7日)に、雨降りの日は一日もなかった。
これは、なかなかめずらしいこと。
おかげで、青森市に生息している植物たちは、ちょっと水不足ぎみ。

床に来て鼾に入るやきりぎりす

「きりぎりす」とは、今の「キリギリス」のことではなくて、今の「コオロギ類」の古称であるらしい。
古典に出てくる「きりぎりす」は、現代の「コオロギ類」のことであると、何かの本で読んだ記憶がある。
江戸時代頃は、現在の「キリギリス類」の昆虫は、「ハタオリ」と呼ばれていたという。

太宰治の有名な短編小説に「きりぎりす」がある。
女性の「話体」で書かれた小説で、「おわかれ致します。あなたは嘘ばかりついていました・・・」という文句で始まる。

その流れるような文章には多少のユーモアも交っていて、私には読みやすい小説だった。
小説の題名となっている「きりぎりす」は最後のほうにやっと出てくる。
「電気を消して、ひとりで仰向に寝ていると、背筋の下で、こおろぎが懸命に鳴いていました。縁の下で鳴いているのですけれど、それが、ちょうど私の背筋の真下あたりで鳴いているので、なんだか私の背骨の中で小さいきりぎりすが鳴いているような気がするのでした。この小さい、幽かな声を一生忘れずに、背骨にしまって生きて行こうと思いました。」 太宰治「きりぎりす」より抜粋。   「こおろぎ」を「きりぎりす」に変えたのは、「きりぎりす」のほうがもの悲しさを感じられるからだろうか。
ともあれ、「こおろぎ」も「きりぎりす」も同じ虫を示していると私は感じている。
同一の虫の呼び方の違いは、生き方の違いを滑稽的に表現しているのかもしれない。
滑稽なほどに成金趣味の夫。
「貧乏になればなるほど、私はぞくぞく、へんに嬉しくて、」と異様に、清貧な生活に憧れる妻。
その妻が、夫の生き方を、もの悲しい「きりぎりす」に例えているのである。
これは滑稽と悲哀の対比と、その融合の物語なのではあるまいか。

「きりぎりす」と言えば、もうひとつ。
イソップ寓話のひとつの「アリとキリギリス」が思い浮かぶ。
イソップは、紀元前の古代ギリシャの人とされている。
それが、日本の江戸時代初期には「伊曾保物語」として出版されていたというから、好奇心旺盛な芭蕉は、「伊曾保物語」を読んでいたかもしれない。
だが、「伊曾保物語」では「アリとキリギリス」では無く、原作に近い「蟻と蝉の事」となっており、キリギリスは登場していない。
日本の「イソップ物語」に「アリとキリギリス」が登場するのは、明治時代に入ってからのことであるらしい。
ともあれ、「題材」に取り上げられる…

「稲垣河川公園」のヤナギ並木の枝枯れが進んでいる

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犬の散歩を兼ねて、「稲垣河川公園」へ寄ってみた。
去年のお盆にこの公園に寄ったとき、ヤナギ並木の枝枯れが酷いなと思ったのだった。
はたして今年の夏は、どうなっているのだろう。
残念なことに、枝の部分の「枯れ」が、去年より進んでいた。
柔らかい緑葉が豊かだった一昨年のヤナギ並木の姿はもうない。
一昨年の写真を見れば、枯れている枝が無いわけでは無かったが。

それは緑のボリュームに覆われていて、あまり目立たなかった。
その後、枝枯れは毎年進んでいる。
人工的に作った並木だから、人の手入れが必要なのだ。

枯れ死んだ枝を切って取り除くとか。
混み合った枝を剪定して、日当たりと風通しを改善するとか。
害虫による枝枯れなら、害虫駆除の薬剤散布とか。
人工的な公園樹を保存するためには、手入れが必要だ。

青森市の都市公園では枝枯れの枝は切り取られ、立ち枯れの樹木は伐採されている。
薬剤散布も害虫の増加状況に応じて行われているようだ。
自然豊かな郡部の都市公園では、芝刈りが手一杯で、公園樹の管理までは手が回らないのかもしれない。
公園に植えたものでも、それはただの雑木という感覚が強いのだろう。
そこら中に生えていて、めずらしくもないヤナギの木に、労力や経費をかける余裕は無い。

青森市の都市公園ほど、日常生活に結びついていないせいもあるかもしれない。
青森市の都市公園の主な利用者は、近隣に住む市民たち。
その目的は、ジョギングだったりウォーキングだったり散歩だったり。
広い都市公園は、市民の日常生活に欠かせない存在だ。

それにくらべて、「稲垣河川公園」の利用者は多目的運動場でのスポーツ活動者がほとんど。
都市公園のように夕涼みを兼ねてぶらりと散歩するなんて人は少ない。
ひと気のないだだっ広い公園なので、気軽に散歩できるような雰囲気もない。
というような理由も加わって、ヤナギ並木の枝枯れは放置されていると思われる。

人知れず、快適な木陰をつくっていたヤナギ並木が、人知れず滅んでいく。
立派なヤナギ並木が、やがて廃墟のようになるのは、まことに残念なこと。
と青森市の公園散歩者は思っているのだが、つがる市にとっては余計な財政負担になっているのかもしれない。

過密傾向の中央都市に狭い公園。
過疎気味な地方都市に広大な公園。
万が一に、地方都市の広大な公園に中央都市の市民がどっと押し寄せても、主な…

つがる市の平滝沼公園で咲いていたツリガネニンジンの、淡い紫色が美しい

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つがる市にある平滝沼公園で、ツリガネニンジンが一株だけ咲いていた。
平滝沼公園は、芝刈りが行われた後らしく、枯れたシバの畝が出来ている。

そんな原っぱに、刈り残された一株のツリガネニンジンが立っていた。
草丈は40センチぐらい。
なんとなくよれよれな姿。

ツリガネニンジンの草丈は40センチから1メートルにまで達するという。
背の高いものは、ほとんど刈られてしまったのだろう。
写真のツリガネニンジンをよく見ると茎が根元で直角に曲がっている。
何かの拍子で伏していたので芝刈り機の刃を免れたとみえる。
それが茎を曲げて起き上がって成長し花を咲かせたのだ。

ツリガネニンジンは、キキョウ科ツリガネニンジン属の多年草。
根は真っ直ぐに地中深く伸びて、60~80センチに達するという。
このように地下に大きい根があるので、刈り取られても再生するらしい。
花期は8月~10月とされているから、この公園に9月の中頃に来たら、再生したツリガネニンジンの花盛りかもしれない。




平滝沼公園は、西側に広がる日本海から1.9キロメートルぐらいの位置にある。
標高は20メートルぐらいだが、高原のような雰囲気がある。
日本海の近くにあって、海からの強い風が吹き込むためだろうか。
厳しい自然環境がもたらす独特の雰囲気。

そんな雰囲気の原っぱに、ツリガネニンジンはよく似合っている。
頭を下げた淡い紫色の花冠は、夏と言うよりも秋を連想させる。
夏から秋への、季節の変わり目に花を咲かせる野草なのだろう。
うつむいた姿は、強い夏の陽光を避けているように見える。

名前にニンジンがついているが、野菜のニンジンの仲間ではない。
この草の長い根がチョウセンニンジンのように太く、花が釣鐘型なので、ツリガネニンジンと呼ばれるようになったとか。
目に見えない地下の根の部分を名前に加えるとは、昔の人は、この野草の根によほど興味を持っていたのだろう。
この根を天日で充分乾燥させたものを生薬として用いたという。
薬効は、咳止め、痰切り、喉の痛み止めとのこと。

釣鐘型の美しい花を眺め、花が枯れた頃に根を掘り出して薬草として利用する。
もしツリガネニンジンがこの地に古代からあった植物であったなら、この営みは、縄文時代から続いていたに違いない。
こういう実用的な野草の支えがなければ、縄文時代は一万年近くも続かなかったのではあるまいか。

つがる市稲垣町の水路に咲いていたオモダカの花

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道沿いの小さな水路の中で、ひっそりとオモダカの花が咲いていた。
水路の場所は、つがる市稲垣町。
水路の一角で、一面がオモダカの葉で埋め尽くされている。
その中にぽつりと白い花が三輪。
オモダカは、オモダカ科オモダカ属の抽水植物。

お盆の15日、河川公園の沼で咲いていた睡蓮の花が見ごろだった

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つがる市稲垣町にある岩木川河川公園の沼で睡蓮が花盛り。
今が見ごろである。
むっとする夏の熱気に包まれた沼。
その沼の水面から、清々しい睡蓮の花が顔を出している。

オオハンゴンソウによく似た黄色い花、アラゲハンゴンソウが合子沢公園の道端に咲いていた

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青森市合子沢公園の自動車道の法面に黄色い花が咲いていた。
ここにもオオハンゴンソウかと思ったが、オオハンゴンソウほど背が高くない。
それに、筒状花の色が違うようだ。
オオハンゴンソウの筒状花は、もっと緑っぽい。

近づいてみると、茎や葉に毛が密生している。
葉の形はヘラ形で、オオハンゴンソウのように裂けてはいない。
舌状花の色も、オオハンゴンソウよりも濃い。
どちらかと言うと、黄橙色。
調べてみたら、アラゲハンゴンソウという名前の、キク科オオハンゴンソウ属の植物だった。
キヌガサギクという別名がある。
オオハンゴンソウ同様、外国からの帰化植物である。




合子沢で見かけたアラゲハンゴンソウの頭状花の直径は、5~8センチぐらい。
草丈は、50~70センチぐらいだった。
オオハンゴンソウのように、一ヶ所に密に群生しているのでは無くて、4~5本の集団が、あちこちに点在しているような生え方だった。
舌状花の黄橙色と筒状花の暗紫色とのコントラストが際立っていて、この花が観賞用として日本に持ち込まれた理由がわかるような気がした。
葉の優しそうな緑色が、柔和な印象である。
茎や葉を触ると、剛毛のためざらついている。

愛犬の散歩がてら、野草の花を見ようと合子沢公園へ行ったのだった。
でも、花は見当たらず、アラゲハンゴンソウだけが夏の花の代表選手のように、独り目立ちしていた。






夏の道端に咲いていたニラの花

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愛犬と散歩の途中、街路樹の根元で群生している白い花を見つけた。
なんという野草だろう、と思って近づいたら、なんとそれはニラの花だった。

ニラには、野菜が野生化したものでは無く、もともと野生の種があると聞いたことがある。
だが、写真のニラは、畑から脱走して野生化したもの。

近くにニラを植えている家庭菜園があった。
植物だから、脱走してもたかが知れている。
でも、自動車道の横の狭い場所で生い茂っているのだから、たいした繁殖力である。

ネギや玉ねぎ、ニラはユリ科の植物だとずっと思っていたが、それは旧い分類方法であるとか。
現在、もっとも支持されている分類方法(APG植物分類体系)によれば、ネギや玉ねぎ、ニラはヒガンバナ科であるそうな。

ちなみにAPG植物分類体系では、「ニンニクよお前もか」で、ニンニクもヒガンバナ科。
ユリとニンニクなら、ユリ根というものがあるから、なんとなくわかるのだが。
ヒガンバナとニンニクでは、ちょっとピンとこない。




ニラの花は半球型の散形花序。
花に鼻を近づけても、あまりニラ臭は無い。
だが、茎や葉をちぎると、独特の香りがあたりに漂う。

ニラを食べるのが大好きでも、ニラの花を知らない方、見たことが無い方は割と多いのではないだろうか。
スーパーの棚で束になっているニラに、花はついていない。
かくいう私も、ニラの花をじっくり見たのは初めてである。

ところでここに、ややこしい問題がひとつ。
写真のニラの花は食べることができるが、ニラによく似たハナニラという植物は有毒である。
ハナニラとは花が美しい園芸植物。
葉がニラに似ていて、ちぎるとニラの匂いがする。

でも、野菜のニラの仲間では無い。
野菜のニラの開花期は夏。
ハナニラの開花期は春。
だから、春に花を咲かせるニラに似た草は食べてはいけない。
ニラの匂いがするからといって、決して食べてはいけない。




臭い男が臭くならないための方法

臭い男が臭くならないためのダンディズム。

それは、毎日お風呂に入ること。

臭い男の、臭さの原因のひとつは汗臭さ。
一日の汗をきちんと洗い落とすだけで、臭さは半減。

臭い体臭をイイ匂いに変える方法なんて無い。
そんなもの、あるわけが無い。
臭い匂いは、洗い落とすに限る。
これが基本中の基本。
臭くならないための大前提。

あちこちでノブドウが花を咲かせて実を結んでいた

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今年の夏は、つる性植物の生育ぶりが好調なのだろうか。
ヘクソカズラとかヤブガラシとかが繁茂している光景によく出会う。
それに、写真のノブドウ。

公園の草むらの隅で、ノブドウがすくすくと蔓を伸ばしている。
私が生まれた津軽半島の村では、ノブドウのことをドクブドウ(毒葡萄)と呼んで忌み嫌っていた。
カラフルな色合いの果実を、幼い私は、恐ろしく毒々しい実だと感じていたのだ。

まだ毒という恐ろしいものを見たことがない少年は、おそらく毒というものの色はこういうものだろうと思ったものだった。
生まれて初めて「ドク」という言葉に出会ったのは、ドクブドウという植物の「ドク」だったような気がする。

だから今でも、ノブドウが生け花の材料として飾られているのを見ると、ちょっと違和感を覚える。
本当にノブドウは、トリカブトのような有毒植物なのか。

ヤマブドウは食べることができるが、ノブドウは食べられない。
というのが、昔からの言い伝えである。
ウィキペディアに「食味は不味い」と記されているから、そんなに有毒ではないのだろうか。
が、昔から人が食べるものではなかったのだから、食べない方が無難である。




ノブドウの花は、ヤブガラシの花に形がよく似ている。
でも、ヤブガラシの花ほどカラフルではない。
ヤブガラシ同様に、花弁と雄しべは早期に脱落する。

花が終わったものから次々と結実していく。
ノブドウの若い実は、まだ緑色である。
これが熟すと、紫色や青色、水色とカラフルなブドウのフサになる。

しかしノブドウも、ヤブガラシやヘクソカズラ同様に、公園から駆除される存在。
公園の植え込みに絡まって、それらを覆い隠してしまうつる性の「雑草」は、厄介者あつかいである。
今年は、カラフルなノブドウの果実にお目にかかれるのかどうか。
それは、都市公園の雑草駆除の日程次第である。






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