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涼風や青田のうへの雲の影

2018/11/10
登芳久氏の「野沢凡兆の生涯」によれば、凡兆は妻の羽紅にみとられて大坂難波に没したとある。
正徳四年(1714年)であったという。
享年は、70数歳と推定されている。

松尾芭蕉亡きあとの蕉門のメンバーのなかで、晩年の凡兆と交流のあった俳諧師は少ない。
服部土芳(はっとり とほう)、志太野坡(しだ やば)、森川許六(もりかわ きょりく)の名が上げられている程度である。

その「風交」は、それほど深いものではなかったとされている。


涼風(すずかぜ)や青田(あおた)のうへの雲の影
森川許六

晩年の凡兆と「風交」を保った数少ない俳人のひとりである許六の発句。
許六のおおらかな性格が感じられるような句であると思う。
おおらかな性格ゆえ、凡兆との交流を絶やさなかったのかもしれない。

その許六も、凡兆が没した翌年の、正徳五年(1715年)八月二十六日に病没した。

「青田」は夏の季語。
夏の晴れた田園風景が目に浮かぶような句である。
青々と実った稲穂が風に揺れている。
その上を雲の影がゆっくりと過ぎていく。
現在においても、日本の田園地帯のいたるところで目にする風景である。

よく目にする風景ではあるが、見る度に感動が伴う風景でもある。
天空の雲の動きに呼応するように青い稲穂が揺れる。

季節は夏とは言っても、時折涼しい風が吹いてくれる晩夏に近い。
天が高く感じられる頃である。

平凡だが、雄大で清々しい句を作った許六は、近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあったという。
また許六は、武士として剣術・馬術・槍術に通じていたと言われている。

奇をてらわず、見た風景を見たままに平易な言葉で詠む。
その潔さは、武芸に秀でた武士としての性格からくるのだろうか。
平明な表現に、許六の自信が感じられる。

出川安人氏の「芭蕉と門人たちの風景」によれば、許六は「二物の取り合せ」を蕉風俳諧の本質と考えていたという。
掲句の「二物」とは「青田」と「雲」であろうか。

「青田」は人の手が加わった人口のもの。
「雲」は天然自然のもの。
許六は、人々の暮らしと自然を対比させることで、17文字の世界を広げようとしたのかもしれない。

そういえば芭蕉が絶賛したという句「十団子(とおだご)も小粒になりぬ秋の風」の「団子」と「秋の風」。
許六の代表作のひとつとされている「苗代の水にちりうく桜かな」の「苗代」と「桜」。
二句とも、人々の暮らしと自然を対比させているように見受けられる。

また、「寒菊の隣もありや生大根」という句にもそれは感じられる。
「寒菊」という雅に通じる自然。
「生け大根」という生活臭漂う暮らしの風景。

許六は「二物の取り合せ」という自身の論を、徹底的に追究しようとして句の言葉を選んでいたのかもしれない。

涼風や青田のうへの雲の影

許六の持論に対する清々しい自信が感じられる一句である。
「青田」という農民(庶民)の暮らしを題材にとる姿勢は、どこか凡兆を彷彿させるものがあると私は感じている。
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