2017/04/30

北八甲田連峰高田大岳東尾根「山腹」をスキー散歩

林道の奥に雛岳が見える。

北八甲田黒森山麓付近の国道394号線には、90度近いカーブが2箇所ある。
その2箇所にはさまれた区間は、距離にして650メートルぐらい。
ほぼ直線になっている。
この直線道路を西に向かって走ると、目の前に高田大岳のカッコいい姿を拝むことが出来る。
まだ雪をかぶっている東尾根がオイデオイデしている。

2箇所のカーブ付近には、小さな駐車スペースがある。
今日は西側のカーブ付近にクルマを駐車して、高田大岳東尾根の山腹をスキー散歩することにした。

雛岳の南面を眺めながら緩い傾斜の尾根を登る。

雛岳方向に延びている林道をしばらく歩いて沢を越える。
四ヶ所ほど小沢を越えて、高田大岳東尾根の裾に到達。
ゆるい傾斜を登る。
ブナの森が、登るほどに開けてきて、雛岳の南面が次第に大きく見えてくる。
高田大岳東尾根の斜面も、林間の奥に見える。

スキー散歩は、必ずしも山頂を目指すものではない。
むしろ山腹を逍遥するほうが、楽しみが大きい。
頂(いただき)にも非ず、麓(ふもと)にも非ず。
山の中間部の周辺を、景色を眺めながら自由に遊び歩く。
それがスキー散歩の楽しみである。

ところで、山の頂上は「いただき」、山裾は「ふもと」と言い表されているのに、山の中間部に対しては、「いただき」や「ふもと」に対応するような言葉が無い。
山の頂上に対しては、「いただき」の他に「みね」という言葉もあり、「峰・嶺・峯」と漢字が豊富。
やはり山頂は礼賛されるべき場所なのだ。

それに対して山の中間部は、「山腹」とか「中腹」。
どちらも「腹」が付いていて、人間のお腹のことを想像してしまい、せっかくの山の雰囲気が壊れてしまいそうな気がする。

山の中間部を言い表す適切な言葉がないのは、広範囲すぎて漠然としているからだろうか。
「いただき」は、山の一番高いところ。
「ふもと」は、山の根もとにある平地部分。
これらを除いた部分が山の中間部。
えっ?
ということは、「いただき」と「ふもと」を除いたら、残っているのは「山」そのものじゃないか。
ということで、山腹を逍遥するスキー散歩は、「いただき」でもなく「ふもと」でもなく、山そのものを楽しむスキー散歩なのである。
と、そんな屁理屈を転がしながら山を歩く。

山そのものは、斜面で構成されている。
斜面とは坂のこと。
山の中間部を「さか」と呼んだらどうだろうか。
「ふもと」から「さか」を経て「いただき」に至る。
なんて寝言を唱えながら山を歩く。

気に入った斜面があれば、「さか」を登って滑る。
静かな森のなかでランチを食べる。
遠くの景色を眺める。

八甲田は、そんな私の「スキー散歩欲」を満たしてくれる「さか」。
時間と体力があれば、どこまでも歩いてみたい山である。

高田大岳東尾根のピーク。

東尾根の手頃な斜面。

東尾根から黒森を眺める。

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2017/04/28

「ここに幸あり」異聞

若い頃知合った人のなかに、面白い男がいた。
彼は、酒に酔うと歌をうたいだす癖があった。
そんな人は世間に大勢いるが、彼の場合その歌い方がちょっと変わっていた。

彼の十八番は「荒城の月」。
寮の一室で親交のある者が集まって酒を飲むとき、彼の口からは決まってこの歌が出た。

「はるこうろうの はなのえん」までは「荒城の月」の節なのだが、歌い進むほどにメロディーが変化してくる。
「めぐるさかづき かげさして」にくると、メロディーにやや変化が生じ、「むかしのひかり いまいずこ」では完全に違う歌のメロディーになってしまっていた。

彼が歌う「荒城の月」をはじめて聞いたときは、変な歌い方をする男だなと思ったが、酔っているせいなのだろうとあまり気に留めなかった。
その後何回か彼の「荒城の月」を聞くうちに、歌い方が変になってしまう原因がわかった。

「はるこうろうの はなのえん」は完全に「荒城の月」のメロディー。
「むかしのひかり いまいずこ」は、なんと「ここに幸あり」のメロディーになってしまっていたのだ。
中間の歌詞は、「荒城の月」から「ここに幸あり」への、歌のグラデーションとなっていた。

聞いていて変だなと思う気持ちが、これは不思議だなと思う気持ちに変わったのは居合わせた者皆同じだった。
どうして彼が、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌ってしまうのか。
ではなくて。
「荒城の月」が、どうして「ここに幸あり」のメロディーで歌えてしまうのか。
そのことが、皆の疑問だった。

ある夜に、私たちは酒を飲みながら、この問題について真剣に討議した。
ためしに皆で、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌ってみた。
ちょっと練習が必要だった。

そして、ちょっと練習した後は、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節できれいに歌っている自分たちに気がついた。
テノールやバスに分かれて合唱っぽく歌ってみたりして、この夜の宴は大いに盛り上がった。

その後私たちは、飲みながらの討議を重ねた。
何度目かの討議の夜に、私たちは大発見をした。
それは、文学部に通っている学生同士の何気ないおしゃべりがヒントになった。

「荒城の月を作詞した土井晩翠って漢詩調の詩を多く書いた人だろう。漢詩って七五調なんだぜ。」
「へっ、それは漢詩の日本語読みが七五調ってだけで、漢詩自体が七五調ってわけじゃないよ。」
『だけど、「荒城の月」って七五調だぜ。』
『七五調でも、「荒城の月」って漢詩じゃないよ・・・・・。』

とたんに一同は、酒の入ったコップを手放し、ぶつぶつ言いながら指をパタパタ折り始めた。
「ほんとだ、七五調だ。」
「きれいに七五調だ。」
「そっくりそのまま七五調だぜ、えらいもんだ。」

なにがどうえらいものやら。
するとどこかで頓狂な声があがった。
『「ここに幸あり」も七五調じゃないか!』

持ち直したコップをまた畳の上に置いて、一同はパタパタ指を折りだした。
『シチゴシチゴ・・・・、ほんとだ、「ここに幸あり」も七五調になってる!』
「いや、シチシチのところもあるぜ!」
「それは字余りってことで、基本的には七五調さ。」
ほうぼうから「シチゴチョウ!」と酔った叫び声があがる。

「そうか、おなじ七五調だから歌えるんだ!」
座の隅でじっと考え込んでいた学生が、大きく目を見開いて皆を見つめながらそう言った。
「おお」と感嘆の声をあげる者。
「うーむ」と合点がいかない者。
パタパタと指を折り続けている者。

学生は目を見開いたまま続けた。
『ということは、七五調の歌詞なら、みんな「ここに幸あり」の節で歌えるってことだぜ!』
「おお」と、また感嘆の声をあげる者。
「うーむ」と、まだ合点がいかない者。
相変わらずパタパタと指を折り続けている者。

「七五調の歌って、他にあるかな」と誰かが言った。
黙々と指を折り続けていた者が、『「怪傑ハリマオ」も七五調じゃないか!』
確かに「怪傑ハリマオ」も変則的ではあるが七五調と言えなくも無い。

やがて、「怪傑ハリマオ」を「ここに幸あり」の節で歌う大合唱が起こった。
だいぶ酔いが進んでいたので、その勢いで、「怪傑ハリマオ」を「ここに幸あり」の節で皆歌い切った。

やっかいなひと仕事を終えた気分だった。
ため息混じりの静寂が訪れたとき、ひとりの学生が得意げにそれを破った。
『「青い山脈」も七五調じゃないか!』
そこで「青い山脈」の大合唱が始まったのは言うまでもない。
「松尾芭蕉だって七五調じゃないか!」と馬鹿なことを言うやつもいた。
ところが「古池や蛙飛び込む水の音」の大合唱。
酒でみんな馬鹿になっていた。
そんな大合唱が、深夜まで続いた。
私たちが催した数多い宴のなかで、最高に盛り上がった一夜だった。

ここまで読んだら、懸命な読者は、もうおわかりのことだろう。
そう、私たちは世間から「三流」の冠を授かっている私立大学の文学部の学生だった。
ろくに勉強もせずに、寮の一室でこんなことばかり繰り返していたので、皆そろって落第し、やがて大学から放り出されることとなった。
同じ寮に住んでいた他の勤勉な学生たちは、さぞやせいせいしたことだろう。

これが、私たち落ちこぼれ学生の青春だった。
もしどこかの町の安酒場で、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌うくたびれた老人を見かけたら、きっとそれは寮生活で苦楽をともにした、私の懐かしい友人のひとりに違いない。

最後に、「荒城の月」を「ここに幸あり」の節で歌っていた張本人は、どうしてそんな歌い方をしていたのかについてちょっと書いておこう。
彼は自称ペシミストだった。
私達の青春時代には、自称ニヒリストとか自称マルキストとか、そういうカッコマンが大学内を横行していた。
彼は、そんなカッコマンのひとりだった。

自称ペシミストの彼は、歌を歌うならペシミストらしく「荒城の月」でなければならないと思いこんでいた。
彼としては、小林旭みたいに哀切をおびた節回しで「荒城の月」を歌い上げることがペシミストとしての矜持だと思っていたのだ。

同時に彼は、「ここに幸あり」の歌にも密かに惹かれていた。
大津美子のアルトっぽい低音にしびれていたのだ。
だが「ここに幸あり」を友人たちの前で歌うのは、いかに酒席とは言え、自称ペシミストとしての彼の矜持が許さなかった。
「ここに幸あり」ではカッコがつかない。

でも、「ここに幸あり」を良い歌だと彼は思っていた。
それは、富田 常雄原作の恋愛小説「ここに幸あり」が、昭和31年に小山明子主演で映画化されたことに因っていた。
昭和47年ごろ、学生の彼は、その古い映画を場末の安い映画館で観たことがあった。

彼は、映画を観て感動した。
涙を流した。
彼は、富田 常雄にしびれ、小山明子にしびれ、映画の主題歌「ここに幸あり」にしびれ、その歌を歌った大津美子の歌いっぷりにしびれた。
そして恋愛がもたらす幸福感に対して密かな憧れを持ったのだった。

彼は富田 常雄の小説を読み漁った。
「姿三四郎」や「忍者猿飛佐助」を愛読した。
そんな彼の「しびれ」のすべてが、流行歌「ここに幸あり」にシンボライズされていた。

彼にとって「荒城の月」は、ペシミストとしてのカッコつけの歌だった。
「ここに幸あり」が、彼が心底憧れた「本音」だったのである。
酔うと本音を吐く人がいるが、彼もそうだった。
酔った末に出た、建前から本音への無意識の移行が、建前である「荒城の月」を本音の「ここに幸あり」の節で歌うことだったのである。

あの時代の出来事。
学生寮の一室でのことを考えるたびに、私は彼の厭世的な表情を思い出す。
それが、彼なりに時代を装った顔だったのだろう。

あの学生寮を出て五年ぐらい経ったとき、私はこう結論づけた。
自称ペシミストも自称ニヒリストも自称マルキストも、青春の憧れは「ここに幸あり」だったに違いない、と。

2017/04/26

蜻蛉の藻に日を暮す流れかな

昔、まだ田んぼに農薬がたくさん撒かれていなかった頃、田んぼの水路にはたくさんの水生昆虫が暮らしていた。
私が子どもだった頃の津軽地方の村においては、そうだった。
トンボの幼虫であるヤゴも、そんな水生昆虫のひとつ。

子どもの頃は、トンボのことを津軽地方の方言で「だんぶり」と呼んでいた。
夏の終わり頃、だんぶりが水面スレスレに飛びながら「打水産卵」を行っている姿を何度も目撃したことはあったが、その卵がヤゴになるということは、なかなか信じられなかった。

年上の遊び仲間たちが、「ヤゴはだんぶりの子ども。」と盛んに弁じても、私は「まさか?」と思っていた。
その神秘的な違和感が解かれたのは、ヤゴが水草に捕まって脱皮しトンボになる有様を、私がじっと見つめていたときだった。
村の子どもたちは、観察することで自然に対する認識を深めていったのだ。
それは、縄文時代も江戸時代も変わらない認識方法だったに違いない。

多くのトンボは水面で産卵する。
だが、産卵の方法は、トンボの種類によって様々であるらしい。
今から57~59年前頃、私が小学校低学年だった頃の津軽地方の田園地帯は自然が豊かだったから様々な種類のトンボを見ることができた。
きっとトンボの様々な産卵方法を見かけたことだろうが、記憶に残っているのは「打水産卵」の印象深い姿。
水面にシッポを打ち付ける動きが、とてもスリリングに見えたものだった。

蜻蛉(とんぼう)の藻に日を暮す流れかな
野沢凡兆

凡兆が句に詠んだトンボは、水生植物の体内に「産卵管」を差し込んで卵を産むタイプなのだろう。
流れが強いので、水面の「藻」が激しく揺れ動く。
「蜻蛉」は、揺れる「藻」に産卵するタイミングを狙っているが、なかなか「藻」に近づけない。
凡兆は、その様子をじっと眺めていたことだろう。

夕刻の小川。
「蜻蛉」の懸命な努力をよそに、もう日が暮れかかっている。
凡兆は、強い小川の「流れ」と目の前の「蜻蛉」との駆け引きを興味深く眺め続けていたに違いない。
「打水産卵」よりもスリリングな「蜻蛉」の行動。
「藻に日を暮らす」というリズミカルな句の言葉。
ずっと流れ続ける川面。

秋の日に、人目に触れることもなく、いたるところで展開されている光景なのだろうが、凡兆はそれをかがみ込んで凝視している。
「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」とそれを眺めている凡兆。
目まぐるしく流れている小川。

流れをじっと見ていると、自身が上流に向かって運ばれているような錯覚に襲われる。
眩暈のなかで、ひょっとしたら「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」は自身ではないかという幻想も湧いてきたのではあるまいか。

いやいや芭蕉と違って、凡兆からはそんな「劇」的な演出は感じられない。
もっと条件の良い場所で卵を産めばいいじゃないかという凡兆の批判的な感情も感じられない。

「流れ」のなかでただ淡々と「藻に日を暮ら」している「蜻蛉」の姿がクローズアップされているだけだと私は感じている。
叙景に徹している。
そうすることで、純粋な「蜻蛉」の存在感が伝わってきているような気がする。

蜻蛉の藻に日を暮す流れかな

※参考までに
野沢凡兆の「藻」と「流れ」を題材としたものに「渡り懸て藻の花のぞく流哉」という句もあります。

■野沢凡兆の俳諧のページへ

2017/04/25

日本人はなぜ桜の花が好きなのか

青空の下、満開の桜。
「花は好きですか?」と問われれば、大部分の日本人は「好きよ。」とか「嫌いではないね。」とか言うに違いない。
花は、日常生活の様々な場面で好んで飾られるものだから。

では、数ある花のなかで、特別桜が好まれるのはなぜなのだろう。
これにはいろいろな意見があるらしいが、私は桜の花が平凡であるからだと思っている。

2017/04/16

北八甲田連峰雛岳西側山麓で快適なスキー散歩を楽しむ

箒場から眺める本日の雛岳。


北八甲田連峰は、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、大岳、小岳、硫黄岳、石倉岳、高田大岳、雛岳と、スキー滑降に適した斜面を持っているピークが間近に点在している。
その各ピークの山裾は、なだらかな傾斜地になっており、残雪期のスキー散歩に適している。

今日は、先々週に引き続き北八甲田連峰雛岳
雛岳の山裾の、北側(箒場)から西側に続く緩い傾斜地を登り、高田大岳の北側に広がっているなだらかで広い無立木の大斜面を散策。
この緩い大斜面は、雛岳と高田大岳の鞍部から続いている。
その大斜面から、雛岳の北西斜面を登り、スキー滑降を楽しんだ。
帰りは、赤倉岳から滑り降りる春スキーコースである「箒場岱コース」と合流し、スタート地点である箒場に到着。
快適なスキー散歩を楽しんだ。


開けたブナの森を進む。


歩きはじめの、立木の間隔が広いブナの林は、小沢が錯綜している。
その沢を越えたり、沢沿いに登ったり。
ブナの木におおわれた森は、単調なようで変化に富んでいる。
ブナの枝を透かして左手方向に見える雛岳が、歩くごとに少しずつ姿を変える。

40~50分歩くと、ブナの森にアオモリトドマツの低く細い木が混じり始める。
やがてその混交林にダケカンバが参入するころ、登りの斜面が少し急になる。
対岸が雪庇でおおわれている沢に沿って、ダケカンバの林のなかを斜登高。
そのダケカンバの林を抜けると、目の前に広大な緩斜面。
全身から歓声が湧きあがる瞬間である。
体内の免疫力高上間違いなしの喜び。

前方には、高田大岳北面の、急峻な沢筋に削られた荒々しい山容。
右手奥に赤倉岳の白一色の大斜面。
左手には、お椀を伏せたような形の雛岳が、穏やかに立っている。

荒々しい高田大岳と穏やかな表情の雛岳との対比が面白い。
この方角から見ると、高田大岳と雛岳の鞍部が、かなり広く見える。
以前反対側から眺めた時は、かなり接近して見えていたのだが。

無雪期の登山道からは見ることのできない山の姿を、有雪期は四方八方から眺めることができる。
それが八甲田残雪スキー散歩の最大の楽しみである。
散歩の途上、手頃な斜面を見つけて、ダイナミックなスキー滑降も楽しめる。
今日みたいな晴れの日は最高。
風が強めだが、まったく苦にならない。
タープを風除けに張って、雪の丘で休憩をとる。
目の前に広がる景色。
八甲田ならではのスキー散歩の楽しみが広がっているのだ。

八甲田スキー散歩、最高!
いくら讃えても、讃えきれない八甲田の懐の深さ。


雛岳の西面が見えてくる。


高田大岳の荒々しい北面。


高田大岳の北側に広がっている緩い大斜面から雛岳西面を眺める。


箒場の方向を眺める。


雛岳西面の開けた斜面へ向かう。


北八甲田大岳(左)と、赤倉岳(右)の大斜面を眺める。


赤倉岳大斜面をズーム撮影。


瞬く間に雲に覆われる高田大岳山頂。


雛岳北西斜面を滑降。滑り出しは、急斜面。後、徐々に緩斜面。


山麓の緩斜面もいい感じで滑れた。


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2017/04/15

若草に口ばしぬぐう烏かな

「口を拭う」という言い回しを聞くことがあるが、それは江戸時代にもあったのだろうか。
「口を拭う」なんて、どことなく感じが悪い。
現代語の「拭う」には、「除き去る」や「消し去る」という意味がある。

現代では「口を拭う」とは、何か悪いことをしたのに素知らぬふりをするという意。
盗み食いの後、口元を拭って食べた痕跡を消し去る行為からきている慣用句だという。
「口を拭う」は、どちらかというと食べ物が不足がちだった古い時代の言い回しのような気がする。

凡兆の生活空間スケッチ「五月雨や苔むす庵のかうの物」

「漬物」は発酵することで香りがよくなってくることから、室町時代には「香の物」と呼ばれるようになったという。
現代では、糠漬けなどは「糠漬け臭い」と言われ、糠漬けの味はともかく、その匂いはあまり歓迎されない。
漬物の匂いの代表格は沢庵漬け。
私の周辺には、沢庵漬けが発している匂いを「良い香りね」とおっしゃる方もいるが、それは少ない。
好みの程度の違いはあっても、現代ではそういう傾向にある。

2017/04/02

爽快な急斜面、北八甲田「雛岳」北尾根

「箒場岱コース」の99番指導票付近から雛岳を眺める。


好天に恵まれた日曜日。
今日は、北八甲田連峰の雛岳へ。

雛岳は春スキーを楽しむには、条件がそろっていて手頃な山。
その好条件をあげると、下記のようになる。
  1. 山麓に広い駐車場や公衆トイレがある。
  2. 山が近い。駐車場(標高610m)から2時間~2時間半ぐらいの登行でピーク(標高1240m)に到達できる。
  3. 山頂からの見晴らしは抜群。
  4. 下の方で高田大岳と尾根でつながっているものの、ほぼ独立峰で、四方に滑降可能な素晴らしい斜面が広がっている(断崖とか、雪崩れそうな沢筋とかの危険個所もあるので充分な下調べが必要)。
  5. 上の写真のように、上部は広大な無立木急斜面になっている。
  6. 樹林帯は立木の間隔が広く、適度な斜度の林間スキー滑降が楽しめる。
  7. 山麓に食堂がある。
  8. アフターの温泉(みちのく深沢温泉)が近くにある。
などなど。
ただし、雪融けの早い時期は、雛岳山麓周辺の小沢越えに苦労するかもしれない。


ブナの大木に雪が載っている。


今年、2月4日の雛岳北尾根スキーハイキングでは、積雪が少なくて、小沢を越えるのに難儀した。
それが、3月に降った雪のおかげで、今日は容易にクリア。
たっぷりの雪の中、ブナ森の中のスキー散歩を楽しむことができた。

高度を上げるにしたがって視界が広がる。
雛岳は、登る楽しさも堪能できる山だ。
北尾根を大きな沢沿い(谷沿い)に登ると、視界が開けていて、地形の変化を眺めることができて面白い。

標高1100m近くまで谷沿いに登ると、行く手を灌木帯に遮られる。
びっしりと密集した灌木の林が、谷にせり出した雪庇まで延びているので、ここからは登頂不能。
山麓から眺めると、白い部分が山頂までつながっているように見えるが雪庇部分は歩けない。
雪庇の下は、深い谷になっている。

今日はここから滑降開始。
ちょっと下がって、灌木帯の空いている部分をトラバースして、尾根の西側の斜面へ。
ここから眺める赤倉岳の大斜面の景観が素晴らしい。
赤倉岳大斜面を滑って箒場に至る「箒場コース」の概要が、眼下に見て取れる。

西側斜面を100mほど滑ってから谷沿いの斜面にもどる。
雪質は湿雪ぽいが、急斜面だから気持ちよく滑れた。
ザラメっぽい雪あり重めのパウダーあり。
いろいろあって退屈しない雛岳北尾根斜面。
気分は爽快。
楽しい時間を過ごせた「雛岳」の北尾根斜面だった。


3月に降った雪で埋まった沢。























単独者のワカンの跡が上へ続いている。


標高1000メートル付近。


谷沿いのルートは、標高1100メートル付近から、雪庇と灌木に阻まれて登行できない。前方右側が密集した灌木帯。その左側に雪庇のかかった深い谷がある。


少し下がって灌木帯を左手に抜け、西側の斜面へ。赤倉岳大斜面(写真右端)を眺める。


北尾根の西側斜面を滑る。


北尾根の谷沿いの尾根斜面を滑る。広大な斜面を独り占め。


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凡兆の生への賛歌と愛着「明ぼのやすみれかたぶく土龍」

「あけぼの」といえば春。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、・・・」は、「枕草子」の冒頭の文章として有名である。
そのため、「あけぼの」と聞くと春を連想する方も多いのではなかろうか。
下記の凡兆の俳諧も、季語が「すみれ」で春の句となっている。

明ぼの(あけぼの)やすみれかたぶく土龍(うごろもち)
野沢凡兆

2017/04/01

凡兆の対比的一体感「くだけたる船の湊やほととぎす」

俳諧に対する私の感想文は、「私ならこう思う」というもの。
であるから、私の感想文には、私なりの物の見方・考え方が如実に反映している。
よく言えば、独自の視点。
悪く言えば、偏った見解。

だが、「どう思おうが私の勝手」というものではない。
取り上げた俳諧と私の作文が、ほんの少しでも共鳴するようでなければ、感想文を書く楽しみは無い。
詩とか小説とか映画とか絵画とかの創作文化の享受者が抱く感想とは、そういうものではあるまいか。
触れたものに、感想をもつというささやかな楽しみ。

くだけたる船の湊やほととぎす
野沢凡兆

江戸時代の季節感覚「川水や汐つき戻すほととぎす」

凡兆の「ほととぎす」の句

またしても凡兆の「ほととぎす」の句
凡兆の「ほととぎす」の句には、「ほととぎす」が唐突に登場する句が多いと、私は感じている。
その句を読むと、まるで取ってつけたような「ほととぎす」と出会うことになる。
これはどういうことだろうと思っていたのだが、遅まきながらあることに気がついた。

不覚にもそれは、今まで凡兆の「ほととぎす」の句を記事にしてきて、まったく考えもしないことだった。
それは、現代を生きている私と、江戸時代に暮らしている人間とでは、季節の言葉(ほととぎす)に対する感覚がまるで違うのではないかということ。