猫の恋やむとき閨の朧月
早春の猫の発情期の鳴き声を、「うるさいなあ」と感じる人は多い。
うるさいはずである。
発情期の鳴き声のなかには、メス猫を奪うためにオス猫同士がバトルする雄叫びも含まれるからである。
恋に焦っているオス同士が、あふれるばかりの敵愾心を相手に向かってぶつけているのだから大音量になる。
もちろん、オス猫を呼び込もうとしているメス猫の鳴き声もかなりうるさい。
それに応えて、メス猫の鳴き声をまねるように鳴くオス猫の声が、また一段とうるさい。
そんな猫達の鳴き声が、行き来し増幅する。
猫の恋やむとき閨(ねや)の朧月
松尾芭蕉
うるさいはずである。
発情期の鳴き声のなかには、メス猫を奪うためにオス猫同士がバトルする雄叫びも含まれるからである。
恋に焦っているオス同士が、あふれるばかりの敵愾心を相手に向かってぶつけているのだから大音量になる。
もちろん、オス猫を呼び込もうとしているメス猫の鳴き声もかなりうるさい。
それに応えて、メス猫の鳴き声をまねるように鳴くオス猫の声が、また一段とうるさい。
そんな猫達の鳴き声が、行き来し増幅する。
猫の恋やむとき閨(ねや)の朧月
松尾芭蕉
元禄五年の春の句。
芭蕉四十九歳のときの作。
芭蕉は、元禄五年の正月を江戸日本橋橘町の仮住まいで迎えている。
深川の第三次芭蕉庵への入居は五月中旬であるから、この句は橘町の仮居での作と思われる。
発情した猫の鳴き声は、深夜になってもなかなか止まない。
芭蕉にとっては、その鳴き声がやかましくもあり興味深くもあったのではなかろうか。
猫の鳴き声は千変万化。
芭蕉はそれを、人の言葉に翻訳しようと耳を傾ける。
メス猫の鳴き声に芭蕉は、「まったく奔放なもので・・・・」と思った。
源氏物語の「朧月夜」を思い出したのである。
「朧月夜」は、物語中随一艶やかで奔放な気性の女性である。
「朧月夜」はメス猫がモデルであったのか、などと芭蕉が思ったなんてことは、ただの私の空想。
地上の生き物の営みと、天空の月との取り合わせによって空間的な広がりが感じられる句である。
「猫の恋」の騒然とした様子と、それが止んだときの「閨の朧月」の静寂感との対比が、朧な春の夜を表現していて面白い。
などという感想を掲句に持ったのだが。
ただ、どうして芭蕉は「閨」という言葉を使ったのだろう。
「閨」とは寝室の意であるが、特に夫婦の寝室という意味合いが濃い。
いきなり「閨」では、句を読む者が戸惑う。
しかも「やむとき」の「とき」もなんとなく唐突な印象である。
「朧月」というボンヤリとしたムードに対して「とき」は、あまりにも端的で鮮明だ。
「猫の恋やむころ閨の朧月」と詠んだ方が雰囲気が良いのでは、とトーシロの私は勝手に思ったりしている。
ひょっとしたらこの句は、発句ではなく「歌仙(俳諧の連歌・連句)」の前句(長句・五七五)なのではあるまいか。
この句が、歌仙で表された物語のなかの一幕だとすると、なんとなくイメージが湧いてくる。
猫の鳴き声が止んで、急に静まり返った「閨」に今は春の朧月の光が射し込んでいる。
音で充満していた「閨」が、今は朧な光に満ちている。
猫の鳴き声に耳を奪われ、朧月の淡い光に目を奪われ。
そんなこの空間に不足しているのは人の恋ではないだろうか、と芭蕉が投げかける。
芭蕉は源氏物語を下敷きにして、曖昧に「閨の朧月」という語を使い、これに続く詠み手に仕掛けていたのかもしれない。
さて、これに続く付句(七七)はどんなだったろうか。
次のメンバーは、凡兆か去来か其角か。
凡兆なら、軽くかわす。
生真面目そうな去来なら、正面から攻め込んで討ち死に。
其角は、芭蕉の期待通り。
などとトーシロは勝手な空想を楽しんでいる。
「事は鄙俗の上に及ぶとも、懐かしくいひとるべしとなり」と先師(芭蕉)が仰った。
芭蕉の弟子である向井去来が著した「去来抄」に、そうあるとか。
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発情した猫の鳴き声は、深夜になってもなかなか止まない。
芭蕉にとっては、その鳴き声がやかましくもあり興味深くもあったのではなかろうか。
猫の鳴き声は千変万化。
芭蕉はそれを、人の言葉に翻訳しようと耳を傾ける。
メス猫の鳴き声に芭蕉は、「まったく奔放なもので・・・・」と思った。
源氏物語の「朧月夜」を思い出したのである。
「朧月夜」は、物語中随一艶やかで奔放な気性の女性である。
「朧月夜」はメス猫がモデルであったのか、などと芭蕉が思ったなんてことは、ただの私の空想。
地上の生き物の営みと、天空の月との取り合わせによって空間的な広がりが感じられる句である。
「猫の恋」の騒然とした様子と、それが止んだときの「閨の朧月」の静寂感との対比が、朧な春の夜を表現していて面白い。
などという感想を掲句に持ったのだが。
ただ、どうして芭蕉は「閨」という言葉を使ったのだろう。
「閨」とは寝室の意であるが、特に夫婦の寝室という意味合いが濃い。
いきなり「閨」では、句を読む者が戸惑う。
しかも「やむとき」の「とき」もなんとなく唐突な印象である。
「朧月」というボンヤリとしたムードに対して「とき」は、あまりにも端的で鮮明だ。
「猫の恋やむころ閨の朧月」と詠んだ方が雰囲気が良いのでは、とトーシロの私は勝手に思ったりしている。
ひょっとしたらこの句は、発句ではなく「歌仙(俳諧の連歌・連句)」の前句(長句・五七五)なのではあるまいか。
この句が、歌仙で表された物語のなかの一幕だとすると、なんとなくイメージが湧いてくる。
猫の鳴き声が止んで、急に静まり返った「閨」に今は春の朧月の光が射し込んでいる。
音で充満していた「閨」が、今は朧な光に満ちている。
猫の鳴き声に耳を奪われ、朧月の淡い光に目を奪われ。
そんなこの空間に不足しているのは人の恋ではないだろうか、と芭蕉が投げかける。
芭蕉は源氏物語を下敷きにして、曖昧に「閨の朧月」という語を使い、これに続く詠み手に仕掛けていたのかもしれない。
さて、これに続く付句(七七)はどんなだったろうか。
次のメンバーは、凡兆か去来か其角か。
凡兆なら、軽くかわす。
生真面目そうな去来なら、正面から攻め込んで討ち死に。
其角は、芭蕉の期待通り。
などとトーシロは勝手な空想を楽しんでいる。
「事は鄙俗の上に及ぶとも、懐かしくいひとるべしとなり」と先師(芭蕉)が仰った。
芭蕉の弟子である向井去来が著した「去来抄」に、そうあるとか。
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