己が火を木々の蛍や花の宿

言葉の意味

その言葉の意味もわからずに音の調子良さだけで、その文句を口ずさむということが、子どもの頃は多かったように思う。
たとえば、童謡(わらべうた)の「ずいずいずっころばし」なんかはそのいい例で、わけもわからずに大声でよく歌っていた。
唱歌の「いらかのなみとくものなみ」の「いらか」の意味を覚えたのは、「鯉のぼり」を歌わくなる年齢になってからだった。

勘違い

話は少しそれるが、私は子どもの頃「飛んで火にいる夏の虫」のことを蛍の謎掛けだと思っていた。
「『飛んで火にいる夏の虫』って何?」という謎々。
その答を蛍だと思っていたのだ。
「火にいる」の意味を「火が灯る」ことだと思っていた。

勘違いはまだ続く。
その後私は、この文句は謎掛けなんかではなくて俳句なんだと思うようになった。
中七が「飛んで火にいる」。
下五が「夏の虫」。
では上五にどんな言葉が入るのだろう。

空白

もしかしたら、上五は空白のままなのか。
そう思いはじめてからは、「飛んで火にいる夏の虫」と聞くと、上五の奇妙な空白感がいつも頭の片隅に残るようになった。

ここで蛍にちなんだ、芭蕉の夏の句をひとつ。

(おの)が火を木々の蛍や花の宿
松尾芭蕉

元禄三年夏、四十七歳のときの発句。
「上方漂泊期」に芭蕉が膳所(ぜぜ)木曾塚に逗留していたときの作とされている。

間投助詞の「を」

「己が火を」の「を」を、「感動・詠嘆の間投助詞」であるとする。
すると「己が火を」は、「自分の光をなあ」という詠嘆調つぶやきになる。
辞書で調べると、「感動・詠嘆の間投助詞」は文末に用いるが、必ずしも文を終止しないという。
はたして「を」が、「感動・詠嘆の間投助詞」であるならば、この句は倒置法によって作られているようにも見受けられる。

そうなると掲句は、「木々に止まっている蛍よ、花の宿に、自分の光をなあ」というイメージになるが、「自分の光をなあ」の後に空白感が残る。

「木々に止まっている蛍たちよ、自分の光で自分たちの棲家を花の宿に輝かせているんだねえ」。
と、この句の情景を描けば、なんとなく納得できるものになるのだが、それでも「己が火を」の空白感は消えない。

格助詞の「を」

今度は、「己が火を」の「を」を、動作の起点を示す格助詞の「を」と考えてみる。
すると「己が火を」の後に来るべき動詞が省略されているように思われる。
その動詞を「灯す」と仮定すれば、「自分の火を灯して、木々に止まっている蛍は自分たちの棲家を、旅人の気を惹く花の宿にしているのだねえ。」と、旅に生きる芭蕉に寄り添った空想をすることもできる。
それでも、どこか物足りない気分が残る。
「花の宿」があっけらかんとして、どこかよそよそしい。

挨拶句か?

「上方漂泊期」の近江での作であるから、芭蕉が門人宅に招待されたときの挨拶句なのかもしれない。
「庭の木々に無数の蛍が集まって光り輝き、この立派な屋敷を華やかな宿に見せていることだ」というような屋敷褒めの句である。
だが、挨拶句なら、中七と下五の「木々の蛍や花の宿」だけでも不足ないように思えるのだが。
「己が火を」と「木々の蛍や花の宿」の間の空白は、挨拶句でも埋まらない。

「己が火」の正体

このように、いろいろな視点から掲句にアプローチしてみたが、「己が火を」の後ろの空白感は消えない。
はたして「己が火」とは「蛍火」であるのだろうか。
蛍火の背後には深い闇がある。
その深い闇を「蛍の花の宿」と対比させつつ「己が火」を闇のなかで燃やす。
そうイメージすると、なんとなく図が見えてきた。

「己が火」は、芭蕉自身の旅への情熱。
そう考えると、「木々の蛍」が「花の宿」を描いて、芭蕉の旅情を慰めている図のようにも思えるのだが。

掲句を読んで、いろんなイメージを思い描いても、気になるのは「己が火」の後ろの空白。
ひょっとしたら、これは芭蕉の策略?

空白を飛んで火に入る夏の虫

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