「おくのほそ道」以降、「上方漂泊期」の芭蕉の足どり
「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」から、「おくのほそ道」以降の「上方漂泊期」と言われている時期の、芭蕉の足どりを追ってみた。
主要地での大体の滞在日数を、多い順にまとめてみると、以下のようになる。
私は、芭蕉が漂泊したという関西地方のなかで、かなりの日数を「近江」で費やしたのではないかと思っている。
なぜなら近江は、「行く春を近江の人と惜しみけり」の句に表現されているように、芭蕉が大きな愛着を感じた土地だからである。
なぜなら近江は、「行く春を近江の人と惜しみけり」の句に表現されているように、芭蕉が大きな愛着を感じた土地だからである。
それを具体的に確認するために、芭蕉の足どりをこの記事にまとめてみた。
上方漂泊期の詳細
元禄二年(1689年) 46歳
- 09月06日:大垣(「おくのほそ道」終着の地)→伊勢長島着
- 09月09日:伊勢長島→津着
- 09月10日:久居
- 09月11日:久居→山田着(伊勢神宮)
- 09月13日:伊勢神宮
- 9月下旬:久居に2~3泊→伊賀に帰郷
- 11月末:伊賀上野→奈良
9月6日から9月下旬まで、約20日間、大垣から伊勢を通って伊賀上野に帰郷。
9月下旬から12月中旬頃まで、約1ヶ月半、伊賀上野に逗留。
9月下旬から12月中旬頃まで、約1ヶ月半、伊賀上野に逗留。
- 12月24日:在京都
11月末から12月末頃まで、1ヶ月程度、奈良、京都逗留か?
- 12月末:膳所木曾塚で越年
元禄三年(1690年) 47歳
- 01月03日:膳所→伊賀上野
元禄二年12月末から本年1月3日まで、約5日ぐらい近江(膳所)に滞在。
- 3月下旬頃:伊賀→膳所
1月3日から3月下旬まで、約3ヶ月間伊賀上野に逗留。
- 04月06日:無名庵→国分山幻住庵
- 6月初め頃:幻住庵→京都(凡兆宅)
3月下旬から6月はじめ頃まで、近江(膳所木曾塚・国分山幻住庵)に約2ヶ月半逗留。
- 06月19日:京都→国分山幻住庵
6月初め頃から6月19日まで、京都に15日ぐらい滞在
- 06月25日:数日前から膳所、珍碩宅に逗留→国分山幻住庵
- 07月23日:国分山幻住庵→大津
- 08月04日:膳所木曾塚在か?
- 08月15日:膳所木曾塚在
- 09月02日:昨日より大津滞在
- 9月中旬頃:堅田に滞在
- 09月25日:堅田→膳所木曾塚
- 09月27日:膳所木曾塚→京都→膳所木曾塚(この日か翌朝)
- 9月末頃:膳所木曾塚→伊賀上野
6月20日頃から9月末頃まで、近江(膳所、国分山幻住庵、大津、膳所木曾塚、堅田)に約3ヶ月と7日ぐらい逗留。
- 10月中旬:伊賀上野逗留
9月末頃から10月中旬まで、伊賀上野に約半月逗留。
- 11月上旬頃:京都
- 12月中旬頃:京都
10月中旬から12月中旬頃まで、京都に約2ヶ月ぐらい逗留。
- 12月中旬頃:大津
- 12月末頃:大津
元禄四年(1691年) 48歳
- 正月:膳所木曾塚滞在
- 1月上旬:膳所木曾塚→伊賀上野
元禄三年12月中旬頃から本年1月上旬頃まで、近江(大津、膳所木曾塚)に25日ぐらい逗留。
- 04月18日:京都嵯峨落柿舎に入る
1月上旬頃から4月18日まで、伊賀上野に約3ヶ月逗留。落柿舎には4月18日より5月4日まで滞在し、「嵯峨日記」を著した。
- 05月05日:落柿舎→凡兆宅
- 06月10日:凡兆宅→大津乙州宅
4月18日から6月10日まで、京都に1ヶ月と20日ぐらい逗留。
- 06月13日:大津乙州宅→凡兆宅
6月10日から6月13日まで、近江(大津)に3日ぐらい滞在。
- 06月21日:史邦宅宿泊
- 06月25日:京都→大津
6月13日から6月25日まで、京都に12日ぐらい滞在。
- 07月12日:膳所木曾塚に滞在
- 7月中下旬:京都に出る
6月25日から7月中下旬まで、近江(大津、膳所)に1ヶ月ぐらい逗留。
7月中下旬から8月上旬頃まで、京都に15日ぐらい滞在か?
7月中下旬から8月上旬頃まで、京都に15日ぐらい滞在か?
- 08月13日:膳所木曾塚滞在
- 08月16日:膳所木曾塚→堅田→翌朝、膳所木曾塚か?
- 9月中旬:京都へ出る
8月上旬頃から9月中旬まで、近江(膳所)に1ヶ月と10日ぐらい逗留。
- 09月23日:京都→膳所木曾塚
9月中旬から9月23日まで、京都に8日ぐらい滞在。
- 09月28日:膳所義仲寺無名庵を出る
9月23日から9月28日まで、近江(膳所)に6日ぐらい滞在。
- 09月29日:彦根への途上、一泊
- 09月30日:彦根平田到着
- 10月03日:美濃垂井滞在
- 10月上旬:大垣滞在
- 10月中旬:熱田に三宿
- 10月中下旬:三河新城(しんしろ)滞在
- 10月下旬:島田宿を経て沼津に一宿
- 10月29日:江戸到着
9月28日から10月29日まで、江戸までの日数1ヶ月。
以上が、「おくのほそ道」の終点大垣から江戸帰着までの、約25ヶ月間の芭蕉の足どりである。
各地での滞在日数
主要地での大体の滞在日数を、多い順にまとめてみると、以下のようになる。
- 近江:8ヶ月と15日ぐらい
- 伊賀上野:8ヶ月ぐらい
- 京都:6ヶ月ぐらい
- 膳所から江戸への旅:1ヶ月ぐらい
- 大垣から伊賀上野への旅:20日ぐらい
上記を見れば、芭蕉の「上方漂泊期」では、近江で過ごした日数が、郷里の伊賀上野のそれよりもちょっと多いことが解る。
芭蕉は、元禄三年と元禄四年の正月を膳所の木曾塚で迎えている。
それぞれ、木曾塚で越年してから伊賀上野へ帰郷している。
仲秋の名月のときは、二年とも木曾塚で句会を開いている。
元禄三年の十五夜に、芭蕉は「月見する座に美しき顔もなし」と詠んだ。
元禄四年の八月十五日も、木曾塚(無名庵)で月見の会。
明けて十六夜は、近江の門人達と舟で堅田まで渡る。
堅田在住の門人の亭で宴が開かれ、一行はおおいに盛り上がった。
芭蕉はこのとき、「十六夜や海老煮るほどの宵の闇」と吟じた。
これらのことは、この三地区(伊賀上野、京都、近江)でいちばん芭蕉が腰を据えていたのは、近江なのではないかという推測を可能にしている。
近江には、近江での芭蕉の生活をサポートした多くの門人たちがいた。
近江蕉門(湖南蕉門)と呼ばれたこのグループには、武士、僧侶、商人、医師、農民と多彩なメンバーが揃っていたという。
芭蕉の経済的な援助者のひとりである門人の水田正秀(みずたまさひで)は、芭蕉のために義仲寺(木曾塚)境内に草庵(無名庵)を新築した。
そのことについて、芭蕉は元禄四年一月十九日に正秀宛書簡を執筆している。
その書簡には「粟津草庵のこと、先づは御深切の至り、かたじけなく存じ候。とかく拙者浮雲無住の境界大望ゆゑ、かくのごとく漂泊致し候あひだ、その心にかなひ候やうに御取り持ち頼み奉り候。」との文章が見られる。
「粟津草庵」とは後の「無名庵」のこと。
芭蕉は、自身について「浮き雲のように漂泊の境地をこそ望むものである」と述べている。
そして、「その心に沿った相応のものをお世話くださいますように」と、草庵は仮の宿りなので簡素なものが良いと正秀にお願いしている。
また、前年の元禄三年七月二十七日の正秀宛書簡には「偏に偏に貴境旧里のごとく存ぜられ候間、立ち帰り立ち帰り御やっかいに成り申すべく候。」と「もっぱら近江が故郷のように思われ、何度も帰ってきてご厄介になります。」と近江に対する愛着を示している。
そういう芭蕉の気持ちを汲んだ水田正秀は、木曾塚の新築草庵を近江の「芭蕉庵」にしようとしたのではないだろうか。
近江蕉門の様々な人々との篤実な触れ合いの中で、「行く春を近江の人と惜しみけり」の芭蕉の句が生まれたのだと思われる。
なお、芭蕉の現時点での残存句は九百八十一句とされているが、そのうち近江での吟は、その約一割にあたる八十九句であるという。
「上方漂泊期」で、芭蕉が詠んだ発句の数は百六十一句。
暇に任せて「芭蕉年譜大成」で、「上方漂泊期」の近江での芭蕉の発句を、彦根での発句三句を加えて数えてみたら七十七句あった。
前述の八十九句の大部分は、「上方漂泊期」の近江で作られていたのだ。
故郷のようであると正秀宛書簡に書いた愛着の地「近江」での、その気持が駆り立てた活発な句作だったのかもしれない。
<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ
近江を活動の拠点に
芭蕉は、元禄三年と元禄四年の正月を膳所の木曾塚で迎えている。
それぞれ、木曾塚で越年してから伊賀上野へ帰郷している。
仲秋の名月のときは、二年とも木曾塚で句会を開いている。
元禄三年の十五夜に、芭蕉は「月見する座に美しき顔もなし」と詠んだ。
元禄四年の八月十五日も、木曾塚(無名庵)で月見の会。
明けて十六夜は、近江の門人達と舟で堅田まで渡る。
堅田在住の門人の亭で宴が開かれ、一行はおおいに盛り上がった。
芭蕉はこのとき、「十六夜や海老煮るほどの宵の闇」と吟じた。
近江蕉門のサポート
これらのことは、この三地区(伊賀上野、京都、近江)でいちばん芭蕉が腰を据えていたのは、近江なのではないかという推測を可能にしている。
近江には、近江での芭蕉の生活をサポートした多くの門人たちがいた。
近江蕉門(湖南蕉門)と呼ばれたこのグループには、武士、僧侶、商人、医師、農民と多彩なメンバーが揃っていたという。
芭蕉の経済的な援助者のひとりである門人の水田正秀(みずたまさひで)は、芭蕉のために義仲寺(木曾塚)境内に草庵(無名庵)を新築した。
そのことについて、芭蕉は元禄四年一月十九日に正秀宛書簡を執筆している。
その書簡には「粟津草庵のこと、先づは御深切の至り、かたじけなく存じ候。とかく拙者浮雲無住の境界大望ゆゑ、かくのごとく漂泊致し候あひだ、その心にかなひ候やうに御取り持ち頼み奉り候。」との文章が見られる。
「粟津草庵」とは後の「無名庵」のこと。
芭蕉は、自身について「浮き雲のように漂泊の境地をこそ望むものである」と述べている。
そして、「その心に沿った相応のものをお世話くださいますように」と、草庵は仮の宿りなので簡素なものが良いと正秀にお願いしている。
漂泊者の故郷としての近江
また、前年の元禄三年七月二十七日の正秀宛書簡には「偏に偏に貴境旧里のごとく存ぜられ候間、立ち帰り立ち帰り御やっかいに成り申すべく候。」と「もっぱら近江が故郷のように思われ、何度も帰ってきてご厄介になります。」と近江に対する愛着を示している。
そういう芭蕉の気持ちを汲んだ水田正秀は、木曾塚の新築草庵を近江の「芭蕉庵」にしようとしたのではないだろうか。
近江蕉門の様々な人々との篤実な触れ合いの中で、「行く春を近江の人と惜しみけり」の芭蕉の句が生まれたのだと思われる。
近江での発句数
なお、芭蕉の現時点での残存句は九百八十一句とされているが、そのうち近江での吟は、その約一割にあたる八十九句であるという。
「上方漂泊期」で、芭蕉が詠んだ発句の数は百六十一句。
暇に任せて「芭蕉年譜大成」で、「上方漂泊期」の近江での芭蕉の発句を、彦根での発句三句を加えて数えてみたら七十七句あった。
前述の八十九句の大部分は、「上方漂泊期」の近江で作られていたのだ。
故郷のようであると正秀宛書簡に書いた愛着の地「近江」での、その気持が駆り立てた活発な句作だったのかもしれない。
<このブログ内の関連記事>
◆見やすい! 松尾芭蕉年代順発句集へ