老いの名の有りとも知らで四十雀
数字と年齢
数字を年齢になぞらえることは、私にもよくある。
そういう発想が、癖になっているのかもしれない。
若い頃にはなかったこと。
年をとればとるほど、そうなるものなのだろうか。
少ない数字を、多い数字よりも「若い」と言うのは世間の習慣みたいなもの。
こんなふうに、数字を年齢に見立てる発想は、広く世間一般にあるものなのだろう。
銭湯の下足箱は、番号の若い方を選ぶ。
いつまでも若くありたいという私なりの「縁起かつぎ」である。
北八甲田連峰の北側に位置する七十森山へスキーハイキングにでかけたときは、私が七十歳になってもこの山を登れるのだろうかと思ってみたり。
数字を年齢に結びつけてしまう癖は、高年齢になるほど目立ってくるものなのかもしれない。
老いの名の有りとも知らで四十雀(しじゅうから)
松尾芭蕉
少将の尼の歌
元禄六年十月、芭蕉五十歳のときの作。
この句は、「元禄六年十月九日執筆許六宛書簡」のなかに収められている。
掲句の後に「少将の尼の歌の余情(よせい)に候。」とある。
「少将の尼」をインターネットで調べてみたら、「藻璧門院少将(そうへきもんいんのしょうしょう)」という名の、鎌倉時代初期に活躍した女流歌人であるという。
勅撰歌人「藤原信実(ふじわらのぶざね)」の次女であるとも書かれている。
さて、その「少将の尼の歌」とは何か。
それは、「己が音につらき別れはありとだに思いも知らで鳥や鳴くらん」という艶っぽい歌。
この歌の「ありとだに思いも知らで鳥や」と芭蕉の「有りとも知らで四十雀」が対応していることは言わずもがな。
この歌の「鳥」とは、夜明けを告げて鳴く鶏のこと。
「この鶏は、恋人とのつらい別れの時を告げているとも知らずに、無粋にうるさく鳴いているのか」というような歌のイメージである。
「少将の尼」の歌の余情
芭蕉は許六宛書簡に、「少将の尼の歌の余情に候。」と書いている。
「余情」とは、言葉で直接には表現されない情感のこと。
それは、言外に感じられるところのしみじみとした情感のことであると思われる。
とすれば、「余情」で詠まれた芭蕉の掲句も艶っぽいものでなければならない。
この句の言外に感じられるしみじみとした情感とは恋情のことではあるまいか。
その観点から、改めてこの句を読んでみる。
すると芭蕉が「四十雀」の求愛活動を目撃して詠んだ句なのではと思えてくる。
「四十雀」の求愛活動は春から夏にかけて行われる。
この許六宛書簡を書いたのは初冬とされている。
だが、この句の季語は「四十雀」で夏である。
芭蕉は、夏にこの句を作り、初冬の書簡に添えたのではあるまいか。
雌鶏を追いかけている四十雀の雄鶏を見かけて、芭蕉はそれを求愛活動だと思った。
四十という、老いを連想させる名前を人間から与えられているとも知らずに、「四十雀」よ、伴侶を求めて頑張っているなと芭蕉は思った。
そう思って詠んだ句が掲句であると私は感じている。
許六宛書簡
「元禄六年十月九日執筆許六宛書簡」には、「当方恙(つつが)なく五句付点取、脾(ひ)の臓(ぞう)を捫(も)む躰(てい)に候。此の脾の臓捫み破りたらん後、初めて俳諧はやり申すべく候。」と書かれている。
「恙なく」と「脾の臓を捫む躰」は対義関係にある。
「五句付点取」を批判している芭蕉が、自分は「五句付点取」を元気に行っているが内蔵をつぶされる思いであると書いている。
そして、自身の内臓が破裂した後に俳諧(点取)は流行ることだろうと述べている。
これは点取俳諧を痛烈に批判したブラックユーモアなのではあるまいか。
正面切って点取俳諧を批判しないのは、かつて自身が点取俳諧で収入を得ていたことを後悔しているからなのだろうか。
芭蕉の老い
さらにこの書簡には「当年めきと草臥増(くたびれまさ)り候。」と自身の老衰を訴えている。
「老いの名」の「四十雀」を見つめながら、芭蕉は自身の老いを痛感していたのかもしれない。
それをそのまま句にしたのではつまらない。
芭蕉は「老いの名」に自身の老いを重ね。
実際は若々しい四十雀に、自身の「復活」を託そうとした。
と書くと思い入れが過ぎるだろうか。
この許六宛書簡を執筆してから一年後の元禄七年十月十二日、芭蕉は他界する。
芭蕉の没後、遊戯的傾向の強い点取俳諧が江戸を中心に流行し、芭蕉の皮肉な予言通りになったのだった。
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