安藤氏の居城だったと推定される、十三湖近く「福島城跡」を見物
国道339号線道路脇の「福島城跡」誘導看板。 |
大沼公園入口から国道339号線を2.6キロメートルぐらい今泉方面へ下ると、上の写真にある「福島城跡」への案内看板が右手にあらわれる。
右折して狭い道へ入る。
道はすぐに未舗装になり、ちょっと進むと、堀と土塁らしきものが正面に見えてくる。
右側に下の写真の看板が建っていて、その奥に崩れかけた櫓(やぐら)が見える。
人を招く看板は建っているが、駐車場は無い。
農道のような遊歩道のような道が、堀に沿って左右に延びている。
道路の空きスペースにクルマを止めて、「福島城内郭跡」を見物。
福島城の内郭跡の看板。 |
上の看板に「福島城跡」の「内郭」の説明文が記されてある。
記載内容は、以下に通り。
福島城跡・内郭(ふくしまじょうあと・ないかく)
福島城跡の「内郭」は、一辺が約200m四方の方形を呈する土塁跡で囲まれ、外側に堀跡を巡らせています。現況では「内郭」北辺部だけが良好に残されています。
平成17~21年度にかけて、青森県教育委員会が「内郭」の発掘調査を行った結果、南東部の一角から板塀で区画された中世の武家屋敷跡が発見されています。
東西70m×南北50mの板塀で区画された中に「主殿(しゅでん)」(対面行事をする場所)とみられる大型掘立柱建物跡を含む五棟の建物群や池状遺構などが発見されました。また、「内郭」東側の堀跡底面からは多くの木製品も出土しています。
このように、「内郭」が中世の十三湊安藤氏時代に築城された居城跡の一つであることが判明しました。
【上記赤文字部分、看板より引用。】
「内郭」南東部で検出された武家屋敷跡(平成20年度調査)。 |
「内郭」東側土塁の堀跡(平成18年度調査) |
「内郭」南側土塁で見つかった門跡(平成21年度調査)。 |
堀の橋(再現)と内郭の櫓(再現) |
上の写真にあるように、堀に架けられた木造の橋を渡り、櫓の門をくぐって、「内郭」へ入る。
橋と櫓は、再現建造物。
堀と土塁は手付かずで、中世から時を経た姿で残っているという。
内郭から土塁を見る。 |
内郭の外から、堀と土塁を見る。 |
内郭は、今は広大な原っぱ。 |
「内郭」には遺跡を示す展示物は見当たらなかった。
とても草深くて、広い原っぱを歩く気分にならなかったから見落としがあったかもしれない。
1メートル近い草丈の、穂状の花を咲かせているオオアワガエリが、福島城の「内郭」跡で生い茂っている。
尚、オオアワガエリはヨーロッパ原産の帰化植物。
日本には明治時代初頭にアメリカから入ってきたと言われている。
内郭に建てられた看板。 |
内郭から櫓を見る。 |
オオアワガエリが生い茂る原っぱ。 |
駐車場の前の看板。 |
「福島城内郭跡」から国道339号線に戻り、今泉方向に600メートルぐらい南下すると、上の写真のような看板が右手奥に見える。
畑の中の舗装道路を100メートルぐらい入ると、乗用車20~25台分の駐車場が整備されている。
改めて見ると、屋根付きのなんと立派な看板。
こんな所がどうして展望台なのだろうと思いつつ、あたりを散策。
福島城跡の説明看板。 |
看板には、福島城についての説明が記されている。
以下の赤文字記述は、私が看板から引き写したものである。
福島城跡
福島城跡は十三湖北岸に面する標高二〇~三〇mの丘陵西端にある。この城跡は内郭と外郭の二重構造をなす。内郭は一辺が約二〇〇m四方の方形で、土塁と堀を巡らしている。一方、外郭は一辺が約一kmで、土塁や堀、一部自然の沢を利用した三角形の要害を為す約六二万平方メートルの広大な面積となっている。
これまで福島城跡は近世編纂物の『十三往来』や『十三湊新城記』にみえる「新城」ではないかとする見解があった。『十三湊新城記』に登場する「新城」については、鎌倉時代末の正和年中(1312~17)に安倍(安藤)貞季(さだすえ)が築いた城郭と記されていることから、従来この地域に勢力を誇った安藤氏の居城として理解されてきた。
また、福島城の名称は『十三往来』に記載された「福島之城郭」が初見となっているが、名称の由来は明らかではない。江戸時代後期の寛政八年(1796)、この付近を訪れた菅江真澄は『外浜奇勝』の中で、「南のかたに大野とてひろ野あり、そこに、誰ならんすみつといふふる柵のあとあり。」と記録しており、江戸時代にはすでに城主や名称についての伝承は絶え、城跡の存在が知られているに過ぎなかった。
古くは昭和三〇年に東京大学東洋文化研究所、平成四~五年に国立歴史民俗博物館、近年では平成一七~二一年に青森県教育委員会が発掘調査を行った。
青森県教育委員会では土塁や堀跡・区画施設・門跡といった福島城跡に直接関わる城郭遺構について重点的な調査を行った。その結果、「外郭東門」や「内郭」といった主要な城郭遺構がそれぞれ安藤氏時代(一四世紀後半~一五世紀前半)に造られたことが確実となった。特に注目されたのは、「内郭」の南東部分から板塀で区画された武家屋敷跡が発見されたことである。東西七〇m×南北五五mの板塀で区画された中に「主殿」とみられる大型の堀立柱建物跡や付属建物跡、池跡も発見されている。
この看板の左手に遊歩道らしきものがあって、そこを散策したら、「福島城址井戸跡」があった。
丸太柱看板が建っているだけで、井戸の痕跡らしきものは見つからなかった。
「福島城址展望台」から国道339号線にもどって、さらに150mぐらい南下したところに、「福島城外堀跡」がある。
こちらも、丸太柱看板が建っていて、明確な堀と土塁が確認できた。
「福島城跡」の遺構を見物したり看板の説明文を読んだりして感じたことは、「福島城」という城の名前についてである。
城跡がある場所の地名は「福島」ではないのに、なぜ「福島城」なのだろう。
看板の説明文にも、「名称の由来は明らかではない。」と書かれている。
一帯においては、「トサ」が古くからの地名であったという。
現在の「十三湖(じゅうさんこ)」の「十三」は「トサ」に漢字をあてたもの。
「トサ」はアイヌ語の「トー・サム」からきているという説がある。
アイヌ語の「トー・サム」は、日本語では「湖・のほとり」という意味だという。
城の名前にその土地の名前を使うことは広く行われてきたこと。
安藤氏は、なぜこの城の名を「十三湊(とさみなと)城」と公にしなかったのだろう。
「福島城」という名前の城は、本当に存在したのだろうか・・・・
というのが気になるところだ。
さて、十三湊(とさみなと)は、鎌倉時代後期には和人と北海道のアイヌ人との、重要な交易拠点であったと伝えられている。
また十三湊において、朝鮮半島や中国との貿易が行われており、当時の博多湊に並び称される港湾都市であったとも伝えられている。
十五世紀半ば(室町時代)、八戸に拠点を置く南部氏の津軽支配の攻勢によって、安藤氏は津軽を追われ、十三湊を奪われてしまう。
しかし南部氏は、重要な交易拠点である十三湊に興味を抱かなかったようである。
その後、南部氏を津軽地方から掃討した津軽氏は、十七世紀の初めに、新たに十三湊の再興を図ったとされている。
岩木川を利用した「十三小廻し」と呼ばれる年貢米の舟運が十三湊で行われていた。
しかし十三潟の入口が砂で埋まるようになってから、しだいに水運も廃れ、十三湊も衰退していったとのこと。
こうして、十三湊も「福島城」も歴史の砂に埋れ、「福島城」の謎を深めることになったようである。
十三湊に埋もれているのは、縄文遺構であり、古代アイヌ人遺構であり、地方豪族の遺構であり、その上に弘前藩の遺構も若干乗っかているかもしれない。
その上に現在の歴史観が乗っかり、自治体の「観光史観」が乗っかり。
なんと重層的な史跡であることか。
というのが、「福島城跡」を見物した私の感想である。
福島城跡の遺構配置図。 |
福島城外郭門跡の説明看板。 |
外郭門跡。 |
福島城井戸跡の木柱看板。 |
福島城外堀跡の木柱看板。 |
外堀の堀と土塁。 |