鶴田町「富士見湖パーク」近くにある「鶴の里ふるさと館(旧川村家)」を見物

(鶴の里ふるさと館。旧川村家)


鶴田町の富士見湖パークの北側に、上の写真の古民家が展示されている。
私が訪れたときは、狼野長根(おいのながね)の「楠美家住宅」と違って、見物人は皆無であった。

この施設の名称は「鶴の里ふるさと館」。
入場は無料。
休館日は、冬期である11月から3月まで。
開館時間は、9時から16時まで。

この「旧川村家」は、鶴田町の後中野(こうなかの)集落にあった建物を、平成七年に現在の場所へ移築したもの。
移築時で、築百二十年であったという。
移築前の建物部材を極力使用して復元したものとのこと。

この雪多い津軽の地で、よく百二十年以上も持ちこたえたものである。
貴重な「歴史的建築物」である。


(古民家の案内看板。)


上の写真は、建物の前に建っている看板で、この古民家についての説明が書かれている。
下の記載(赤文字部分)は、看板の説明書きを引用したものである。

「鶴の里ふるさと館(旧川村家)は、一八七四年頃に川村半助氏(一八四四年生まれ)が水元村大字下藤代四九番地に、材料を原木で購入し、三年の歳月をかけ製材、建築された津軽地方を代表する茅葺き住宅です。建築材は耐久性の強いヒバやケヤキが主となっているため、内外部とも保存がゆきとどき、当時の建築様式を原形のまま今日にとどめています。
 屋根は茅葺き造りで地面から八方と呼ばれる煙出しまでの高さは十m、玄関引戸、格子戸には、飾り板など当時の木工技術が施され、屋根には銅板が、使用されています。
 また欄間は、弘前市の高名な方の作と言われ、当時としては珍しい帳場室、茶室などがあります。
半助の長男川村享氏(一八七〇年生まれ)は、慶應義塾に学び大正八年から昭和六年まで県会議員三期、この間に県議会議長を務められ、県政会の重鎮として活躍した生家であり時代の繁栄がうかがえる上層農家住宅であります。」
(句読点等、看板原文のママ)


(旧川村家前景。)


(通常入口。)


(風除室の奥の、屋内に入る引き戸。)


奥の板の引き戸を開けて、中へ入る。
引き戸は、ネズミなどの侵入を防ぐために閉めっぱなしにしておかなければならない。
建物の中に管理人や案内人はいない。


(土間。右手奥が馬小屋である「まや」)

建物内の主要な部屋には、その部屋の名称と説明を記した小さな看板が置かれている。
以下の「赤字部分」は、その看板からの引用である。

「どま ワラ打ちなどの作業を行なう場所です。同時に、田畑からのさまざまな収穫物を、一時的に取り込んでおく空間です。」



(「土間」から「板の間」と「常居(じょい)」を見る。)


(板の間から屋根裏の小屋組みを見上げる。)


(台所。)


「だいどころ(台所) 朝食とともに、この空間から一日がはじまり、そして夕食で終わります。まさしく家族の毎日の食生活は、この空間でまかなわれていました。」



(座敷。)


「ざしき(和室) 2階の和室は、家人の寝所です。」


(常居。)


「じょい(常居) 応接間、小さな囲炉裏が片隅に設けられています。この部屋で特別な行事が行われるときには火鉢が用いられました。」



(寝所。)


「ねんどこ(寝所) 主人のねま(寝所)」



(座敷の横から2階へ上がる階段)


(座敷横からの階段を上がった2階の部屋。家人の寝所。)


(仏間。右手の部屋は床の間。)


(床の間。書院風な違い棚は、当時の上層農家の流行か。)


「床の間(とこのま) 特別な行事が行われるときに用いる。」



(まげ。)


「まげ(間木) 間木(まげ)は住み込みの使用人(女中)の部屋です。」


(「めんじゃ」と呼ばれていた流し。)


「めんじゃ(流し) 炊事及び洗面所」

「めんじゃ」は、「水屋」の訛った呼び名なのだろう。
「めんじゃ」の左側に「かまど」が設置されている。



(「まげ」へ上がる急階段。)


(板の間の囲炉裏の上部。格子状の板は火棚。)


(屋根の棟に八方と呼ばれる立派な煙出し。まるで天守閣。煙出しの下が、板の間の囲炉裏に通じている。)


(玄関。唐破風のような小屋根とそれを支えている「雲形肘木」。右手に出格子窓。)


当時の津軽地方の玄関とは、特別な客を迎えるための特別な出入口。
普段はほとんど使用しない。

玄関の小屋根がアーチ状に造られている。
神社や寺院の唐破風屋根を思わせる造りである。
さらに、雲形肘木のような装飾板でその屋根を支えている。
玄関の右手に出格子窓があったり。
当時の津軽の上層農家は飾りを重んじたようである。

この「旧川村家」を富士見湖パークの近くに復元移築した目的は、古民家を通して「当時の生活の様子を後生に伝える(鶴田町ホームページより引用)」ことであるとのこと。

五所川原の「楠美家住宅」を見物したときにも感じたことだが、「当時の生活の様子」と言っても、「旧川村家」の生活の様子は、この地方の上層農家の「生活の様子」。
つまり資産家の「代表例」としての「生活の様子」を保存していることになる。

では、その他大勢の、代表になれなかった「生活の様子」はどうだったのだろう。
と、こんなことを思うのは私だけだろうか。

これは「歴史的建築物」の保存であると同時に、「当時の上層農家の価値観」の保存なのではないのだろうか。
たとえば、唐破風屋根風な玄関とか、出格子窓とか、書院造り風な床の間とかにその「価値観」が漂っているように見える。

「楠美家住宅」同様「旧川村家」も、無人の荒野のなかにぽつんと一軒だけ存在したわけではあるまい。
おそらく、一定戸数の集落の代表的な存在だったのだろう。

とすれば、この「代表」は、集落の一部分としてあったのである。
そういう視点で、この「歴史的建築物」を見れば、代表になれなかった「生活の様子」も、またおぼろげながら見えてくるのでは。

この代表的な建物の部分部分から、当時の一般的な「生活の様子」を垣間見ることができるのではあるまいか。
たとえば、土間の隅から、「めんじゃ」の端から、「まげ」の壁から、板の間の囲炉裏から、「まや」の暗がりから。
居住空間のそういう部分から、伝わってくるものがある。

一方では「富」を表さなくてはならない玄関や床の間があり、他方には、あまり「富」を表さなくていい土間(どま)や馬小屋(まや)や屋根裏部屋(まげ)がある。
そのバランス感覚が興味深い。

子細に見れば、茅葺屋根は縄文的であり、その下の玄関の「唐破風」風小屋根は弥生的であると探りをいれることもできるかもしれない。

それはともあれ。
「旧川村家」は当時の豪農のお屋敷ではあったのだろうが、豊かさの「見本」ではなかった。
ついつい私は、「〇〇家住宅」という展示物に、豊かさの「見本」や「象徴」を見ようとするのだが、「〇〇家住宅」から伝わってくるのものは別のものだった。

そう思った今日の古民家見物であった。

そういえば、「型」としての「旧川村家」なら、私が生まれ育った旧稲垣村の集落でも、よく見かけた。


(建物正面の左手側面。)


(建物の背面。)


(建物正面の右手側面。)

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