木啄も庵は破らず夏木立

芭蕉は「おくのほそ道」の旅の途上、四月五日、那須黒羽(くろばね:現栃木県大田原市)にある雲厳寺(うんがんじ)を見物した。

雲巌寺は、禅宗の日本四大道場のひとつ。
他の三寺は、筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺とされている。

「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」によれば、「仏頂和尚の山居の跡などを見る」とある。

芭蕉は、貞享四年八月の「鹿島紀行」の旅で、鹿島根本寺の前住職、仏頂和尚(仏頂禅師)の隠居所である長興庵に宿泊している

仏頂和尚が、芭蕉庵(第一次芭蕉庵)の近くである深川の臨川庵(りんせんあん、後の臨川寺)に滞在していたとき、芭蕉は和尚と交流を深め足繁く参禅したと伝えられている

芭蕉が深川に庵を結んだことがキッカケとなって、後に畏友となった仏頂和尚を知り得たのだった。

木啄(きつつき)も庵(いほ)は破らず夏木立
松尾芭蕉

元禄二年四月五日の作。

以下の引用(赤文字)は、「ビギナーズ・クラシックスおくのほそ道(全)角川ソフィア文庫」の雲巌寺の項を書き写したもの。

「当国雲巌寺の奥に仏頂和尚山居(さんきょ)の跡あり。

  竪横(たてよこ)の五尺にたらぬ草の庵(いほ)
   むすぶもくやし雨なかりせば


と、松の炭して岩に書き付けはべりと、いつぞや聞えたまふ。その跡見んと雲巌寺に杖を曳(ひ)けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓(ふもと)に到る。山は奥ある気色にて、谷道遙に、松・杉黒く、苔(こけ)しただりて、卯月の天今なほ寒し。十景(じっけい)尽(つ)くる所、橋を渡って山門に入(い)る。
さて、かの跡はいづくのほどにやと、後の山によぢ登れば、石上(せきしょう)の小庵、岩窟(がんくつ)に結び掛けたり。妙禅師の死関(しくあん)、法雲法師の石室(せきしつ)を見るがごとし。


  木啄も庵はやぶらず夏木立


と、とりあへぬ一句を柱に残しはべりし。」



上記引用を、私の下手な現代語訳にしてみると。

「この国【下野国(しもつけのくに)】の雲厳寺の奥に、仏頂和尚が修行のために山にこもった跡がある。
【五尺四方にも足りない草庵を構えなければならないのは悔しいことだ。雨さえ降らなかったら、修行のためにはこんな草庵も必要ないものを】
と松の炭で岩に書き綴ったと、仏頂和尚がいつか教えてくれたことがあった。
その跡を見ようと雲巌寺に杖をついて出かければ、多くの方たち(門人)が先に進んで案内してくれる。そのなかには若い人達が多く、道中にぎやかに歩いていると、いつのまにか雲巌寺の山の麓に着いた。
山は奥深い雰囲気で、谷の道が長く延び、松や杉が黒々とあたりを覆い、苔が垂れ下がって、もう四月(初夏)なのにまだ寒々とした天候であった。
様々な見所である十景が付きたあたりで橋を渡って寺の山門に入った。
さて仏頂和尚が修行した草庵はどのあたりにあるのだろうと、寺の後ろの山へよじ登れば、岩の上の小さな草庵が岩穴に寄せ掛けて造られてあった。
まるで、妙禅師の死関や法雲法師の石室を見る思いであった。

木啄も庵は破らず夏木立

と、その場の即興の一句を草庵の柱に残して去った。」

【※妙禅師は、元代の禅僧である高峰原妙禅師のこと。石洞に「死関」と称して居室としたという。ちなみに「死関」とは、この世からあの世へ入る門の意で、死門ともいうとのこと。
【※法雲法師は中国の高僧?詳細は不明】

敬愛する仏頂和尚の、若い頃の修行の跡をまざまざと目撃した感動が、後の山によぢ登れば、石上(せきしょう)の小庵、岩窟(がんくつ)に結び掛けたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし」という一節に感じられる。

草庵に辿り着くまでに、啄木鳥が盛んに木を叩いている音を、芭蕉は聞いたのだろう。
そして、もしその草庵が崩壊していれば、それを啄木鳥のせいにしようと思いながら山を登ったのではないだろうか。

ところが着いてみれば、岩穴にもたれ掛かるようにして、まだ草庵は原形をとどめているようであった。

仏頂和尚はこの庵で修行僧としての戒律を破らずに立派に行を終えている。
その庵を、木を突っつき回っている啄木鳥も破らずにいる。
それは、周囲の夏木立のように、啄木鳥も仏頂和尚の厳しい修行を見守っていたからであろう。
芭蕉は、自身の感慨を平明な言葉でそう詠んだ。

ところで、鳥山石燕(とりやませきえん)という江戸時代中期の画家が『今昔画図続百鬼(こんじゃくがずぞくひゃっき)』という妖怪画集を安永八年(1779年)に刊行した。
芭蕉が没してから八十五年後のことである。

この妖怪画集に、「寺つつき」という啄木鳥の妖怪が描かれている。
「寺つつき」は、くちばしで建物のあちこちを突っついて、寺を破壊しようとする妖怪であるという。
画集が出たのは芭蕉没後のことであるが、「寺つつき」の妖怪譚を芭蕉は知っていたかもしれない。

以下は私の空想である。
雲巌寺へ向かう道は、松や杉が鬱蒼と生い茂る谷沿いの道であった。
その道を、若き人多く道のほどうち騒ぎて」歩いた。

冗談を交わし合いながら、大いに盛り上がって賑やかに歩いたことだろう。
鬱蒼とした森のなかでは、啄木鳥のドラミングが盛んに聞こえていた。
それに耳を傾けていたある若者が、妖怪「寺つつき」の話を持ち出し、一行はさらに盛り上がった。

「芭蕉さん、寺つつきがお寺を破りに来たんじゃないかい。」という若者もいたことだろう。
芭蕉は、草庵の前で句を詠もうとしたとき、この妖怪「寺つつき」のことが頭にあったかもしれない。

そんな「寺つつき」の妖力も、仏頂和尚の「禅の力」には敵わなかった。
「寺つつき」は夏木立の陰に退散してしまったことだろう。
芭蕉は、ユーモアたっぷりに、仏頂和尚に語りかけたのである。

木啄も庵は破らず夏木立

ちなみに仏頂和尚は、正徳五年(1715年)にこの雲巌寺の山庵で病没している。
享年七十四歳。
芭蕉没後二十一年目のことであった。


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