雑談散歩

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十三湖北岸の中世宗教遺跡「山王坊遺跡」を見物

シンボルの山王鳥居
【シンボルとして近年建立された「山王鳥居」】


「道の駅十三湖高原」方面から国道339号線を小泊へ向かって走っていると、右手に上の写真の鳥居が現れる。
赤い鳥居は、かなり手前からでもよく目立っている。

山王坊川にかかっている山王坊橋を越えたところに道路案内標識が建っている。
それには「山王坊遺跡 日吉神社」と記されている。

ここを通るたびに気になっていた鳥居だった。
津軽半島にあるものにしては、かなり違和感が漂っている。
通常の鳥居の上に、小さな鳥居状のものが載っている。
「なんだ、これは?」てな感じである。

今日は、前から気になっていた「国指定史跡 山王坊遺跡」を見物した。
国道339号線沿いの鳥居は、近年に建てられたシンボル塔であるとのこと。


【鳥居脇の看板。】


上の写真は、「東北自然歩道 安東史跡をめぐる道」と題された看板。
この看板の太い赤線で描かれた道は、自動車でも通れそうな印象である。

だがこのルートは、山間部に急坂があったり、道が狭かったり、自動車では通行困難な箇所もあるので注意が必要である。
看板マップ上の「山王坊日吉神社」と「春日内神社」間は、クルマでは通行不可能。
「安東史跡をめぐる道」は、看板通りの「歩道」のルート。
自動車通行可能な箇所は限られている。

また、上の看板で表示されているエリアの、道端に建っている案内看板には、残念ながら不明瞭・不明確なものもあるので、これも要注意である。

【駐車場から山王防遺跡の参道前広場を見ている。】


国道から1.35km入ると、上の写真の広い駐車場に着く。
左側の看板の手前が、舗装された駐車場で、普通乗用車が50台ぐらいは駐車できそうな広さである。
奥のタクシーが停まっている場所は、参道前の広場のようなところ。
広い駐車場が整備される前の、旧駐車場だったのかもしれない。


【参道横に建っている立派な看板。広場から見ている。】


参道の右側に立派な看板が建っている。
この地が、本当に由緒ある場所だと訴えているような看板である。

看板右側には、「山王坊遺跡と日吉(ひえ)神社」と題された説明書きが書かれている。
以下の「赤文字」部分は、その説明書きを書き写したもの。

『 山王坊川が流れる山間の奥まった谷間に日吉神社が勧請されている。この一帯は「山王坊」とも呼ばれ、山林に囲まれた境内地は古来より霊地として地域住民に畏敬の対象とされ、大切に守られてきた。
 これまで①安藤氏に関する日吉神社の地である②「十三往来」に記載される阿吽寺跡の地である③南部氏によって焼き打ちされた地であるといった伝承が語られてきた。
 さらに山王坊一帯からは南北朝~室町時代の五輪塔・宝篋印塔・板碑などの石造物が多く出土しており、「十三千坊」の中心地と考えられてきた。
 昭和五七年~平成元年度の調査では、最奥にある丘陵中腹から奥院と考えられる方形配石墓や幣・拝殿跡、大石段(石組階段)が一直線上に配置されて発見された。
 一方で、平坦地からは南北一列に並ぶ拝殿、渡廊、舞台、中門、瑞垣、本殿跡といった社殿跡(神社跡)として復元可能な礎石建物跡が発見された。
 平成一八~二一年の調査では、西側丘陵の山際から、新たに三棟の礎石建物跡が発見された。そのうちの一棟が南側を正面とする入母屋造か寄棟造で、仏堂などの仏教的色彩の強い建物跡であることが分かった。最大の特徴は、流水(水路)に跨って建てられていることであり、自然の流れを利用した庭園を伴っていた可能性が考えられる。
 山王坊遺跡は十三湊安藤氏の盛衰と一致する一四世紀中頃から一五世紀中頃(南北朝~室町前期)に繁栄を極めた神仏習合を如実に示す貴重な宗教遺跡である。』


【看板左側の、仏堂跡復元図(左)と山王坊日吉神社復元図(右)。】


看板左側の復元図は、素人ではちょっとわかりにくい。
それに現在地も示されていない。

「発掘調査報告書」の図面を、そのまま看板に使用したものと思われる。
ここには、「山王坊遺跡」全体の概略図(イラストマップ)看板が必要であると感じた。


【日吉神社参道。】


上の写真は、「山王鳥居」と呼ばれてる参道の鳥居。
「山王鳥居」を大辞林で調べると「鳥居の様式の一。笠木(かさぎ)の中央に棟柱を建てて合掌形の破風を架したもの。日吉(ひえ)山王権現の鳥居から始まったという。」とある。

「山王鳥居」に象徴される「山王信仰」とは、「山王総本宮 日吉大社(滋賀県大津市)」のサイトに以下のように説明されている。
  1. 最澄が比叡山に天台宗を開いた。
  2. 唐の天台山の守護神「山王元弼真君(さんのうげんひつしんくん)」にちなみ、既に比叡山の守護神としてご鎮座されていた「日吉大神」を「山王権現」と称した。
  3. 神仏習合の信仰である。
「神仏習合」とは、大辞林に日本古来の神と外来宗教である仏教とを結びつけた信仰のこと。」とある。
なお日吉神社の鳥居のように、鳥居本柱の前後に短い控え柱を立て、貫板(ぬきいた)で本柱とつないだ鳥居を「両部鳥居」と言い、「両部鳥居」は神仏習合の名残であるとのこと。

ちなみに松尾芭蕉の句「辛崎の松は花より朧にて」の舞台である琵琶湖西岸の「唐崎神社」は、「山王総本宮 日吉大社」の摂社であるという。


【(山王防遺跡 遺構配置図)の看板。】


上の写真は、「日吉神社」鳥居の手前にある看板。
「遺構配置図」の看板であるが、これも「発掘調査報告書」の図面をそのまま看板に使用したものと思われる。

細い線で描かれた図面は、冊子でなら見やすいのだろうが、看板にすると非常に見にくい。
私のような素人では、図面のイメージが現場の景観と重ならず、イライラしてくる。

彩色したり挿絵を使ったり散策路を明記したり、分かりやすい案内看板としての表現方法がいろいろありそうなものだが・・・・
訪問者に不親切な看板であるな、と感じた。


【木陰から建物が見える。】


【日吉神社拝殿の裏の階段廊下。】


【日吉神社拝殿?】


上の3枚の写真の建物が「日吉(ひえ)神社」であるらしい。
看板が無いから、なんともわからない。
固く閉ざされた戸は、訪問者と賽銭を拒絶しているような印象である。
私は取り出した1万円札を、また懐深く押し戻したのであった。


【石碑のお堂。】


「日吉神社」横のお堂。
お堂の奥に、真新しい塔婆が八本立てかけられてあった。
塔婆の「宛名」は、「前九年後三年合戦犠牲者」とか「承久の乱犠牲者」とか年代がかったもの。
「施主」は、八本の塔婆すべて「龍王寺」とあった。


【境内にはミズ(ウワバミソウ)が群生している。】


杉木立が立ち並ぶ境内は、湿潤である。
境内には、水辺を好む野草であるウワバミソウ(ミズ)、フキ、ヤグルマソウなどが群生していた。


【礎石。】


上の写真奥の、細長い東屋みたいな木造建物の柱に、この遺構の説明看板が付いていた。
以下の「赤文字」部分は、その看板を書き写したものである。

「神社跡(本殿・舞殿・渡殿・拝殿)

 この遺跡は、神仏混淆の濃厚な神社跡と推定される。本殿は前庭を持って瑞垣を回らし、前方に舞殿・渡殿・仏堂風の拝殿が南北に並ぶ。神事は舞殿、仏事は拝殿で行われ、その西方の建物は本地堂と多目的の講坊であろう。」


【板敷きの遊歩道を歩く愛犬。】


【奥へ続く遊歩道。】


この遊歩道は、「東北自然歩道 安東史跡をめぐる道」の看板で、「森林浴ロード」と記されている道。
鬱蒼とした杉木立をくぐる遊歩道である。


【踏段。】


上の写真は、「森林浴ロード」の終点の踏段。
この踏段を上がると、山王坊川に設けられた現代の砂防ダムがある。


【磐座信仰。】


「日吉神社」の東側の遊歩道脇に鎮座している「磐座(いわくら)」。
「磐座」とは、自然の岩石に神が依りつき宿っているとした古神道(こしんとう)の信仰とのこと。

自然崇拝は、日本人の信仰の原点と言われている。
この地の信仰の原点は、「山王信仰」以前にこの「磐座」にあったのではないだろうか。

この「磐座」を見ていると、沸々と妄想が湧いて出た。
それは、「山王信仰」の民が「磐座信仰」の民を追い出し、征服の証に「山王坊日吉神社」を建立し、彼らの神を勧請したのではないだろうかという妄想。

「山王信仰」は、当時の大津・京都の文化。
「磐座信仰」は、古代より伝わる津軽半島文化だったのではあるまいか。
だが津軽半島で栄えたかに見えた「大津・京都の文化」は、南部氏の安藤氏追放によって衰退してしまう。

「山王信仰」は「国指定史跡 山王坊遺跡」として脚光を浴びているが、「磐座信仰」の土着の神は、世間の関心を惹くことは少ないであろう。

だが消え去ることなく、今も津軽半島で存在し続けているに違いない。


【山王坊川から引き込んだ水路。】


下の写真の看板は、「日吉神社」と「磐座」の間に建っている「宗教施設跡」と題された看板。
「日吉神社」と「磐座」の間にある遺構についての説明看板のようである。

以下の「赤文字」部分は、看板に記された説明書きを書き写したもの。

「 この遺跡は大石階の北に展開しており、出土礎石などから推定し、南から礼拝施設、東西二個の礎石は鳥居、最北は方形基壇を持つ中心的な建物であり、出土遺物は仏教的であることから、密教に関係する廟所や宝塔などが考えられる。さらに大石階は早くから使用中止となり埋没したと思われる。石階上の推定礼拝場所に現存する礎石と西側の礎石群は、同形大小二棟の並立建物と推定され、前方傾斜面の石階の位置から、後世になっての神社二棟の可能性もある。」

なお「山王坊遺跡」の詳細については「五所川原市のホームページ > 教育・文化・スポーツ > 文化 > 山王坊遺跡」に記事があるので、興味のある方はご覧くだされ。


【(宗教施設跡)の看板。】
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