雑談散歩

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五月雨や色帋へぎたる壁の跡

【「芭蕉年譜大成」と「芭蕉紀行文集」】


「嵯峨日記」は、芭蕉が上方漂泊期に、嵯峨の「落柿舎」で十八日間過ごした日々を綴ったものである。
発句と、日記風文章で構成されている。

「落柿舎」は、京都在住の門人向井去来の、嵯峨野にある別荘。
芭蕉はこの「落柿舎」に、元禄四年四月十八日から五月四日まで滞在した。
ちなみに、芭蕉が「落柿舎」を初めて訪れたのは、元禄二年十二月だといわれている。

以下の「赤文字」部分は、「芭蕉紀行文集(岩波文庫)」より書き写した「嵯峨日記」冒頭の文である。

「元禄四辛未(しんび)卯月十八日、嵯峨にあそびて去来落柿舎(らくししゃ)に到(いたる)。凡兆(ぼんてう)来りて暮に及(および)て京帰る。予は猶(なほ)(しばらく)とゞむべき由にて、障子つゞくり、葎(むぐら)(ひき)かなぐり、舎中の片隅一間(ひとま)なる處伏處(ふしど)ト。机一、硯、文庫、白氏集、本朝一人一首、世継(よつぎ)物語、源氏物語、土佐日記、松葉集(しょうえふしふ)を置(おく)。并(ならびに)唐(から)の蒔絵(まきゑ)書たる五重の器(うつわ)にさまゞの菓子(もり)、名酒一壺(いっこ)盃を添(そへ)たり。夜るの衾(ふすま)、調菜(てうさい)の物共(ども)、京ゟ(より)(もち)来りて乏しからず。我貧賤をわすれて清閑(たのしむ)。」

以下は、私の現代語拙訳。

「元禄四年かのとひつじ四月十八日、嵯峨野を散策して向井去来の落柿舎に着いた。野沢凡兆が同行して、夕暮れになって京都に戻った。私はさらにしばらく滞在するということで、障子が修繕され、庭のムグラ(トゲのある蔓草の一種)がむしり取られていて、別荘の片隅の一部屋が寝室として提供されていた。この部屋には、机一つ、硯(すずり)、蔵書は白氏文集、本朝一人一首、栄華物語、源氏物語、土佐日記、松葉集が備えてあった。これらとならんで、中国の蒔絵を描いたような五種類の器にさまざまの菓子を盛り、名酒一本に盃を添えてあった。夜に寝る布団、副食物などは、京都より持ってきたもので貧弱ではない。自身の貧しく身分賤しいことを忘れて、世俗から離れた静かさを楽しんでいる。」

「嵯峨日記」は上記のように、「野ざらし紀行」や「笈の小文」、「おくのほそ道」の宣言調の書き出しと違って、のんびりとおだやかな語り口で始まる。

芭蕉は、「落柿舎」でゆったりとした日々を過ごしたようである。
滞在期間中は、凡兆・羽紅夫妻をはじめとして、関西の門人たちや曾良が訪れ、芭蕉は親しく歓談している。

そんな充足した時を過ごしたが、やがて「落柿舎」を去るときがきた。

五月雨や色帋(しきし)へぎたる壁の跡
松尾芭蕉

元禄四年五月四日、夕暮れに作った句と思われる。
句の前の、「嵯峨日記」の〆の文が以下である。
「明日は落柿舎を出(いで)んと名残(なごり)をしかりければ、奥・口の一間(ひとま)ゝを見廻(めぐ)りて、」

夕刻まで居た曾良が「落柿舎」を去り、ひとりになった芭蕉は、この十七日間過ごした家の中を見て回る。
掲句は、翌日(五日)に「落柿舎」を去るにあたっての挨拶の句であり感傷の句でもある。

たった十七日間ではあっても、慣れ親しんだ「宿」なら、離れがたい愛惜の念がわく。
外は五月雨。
雨の音が、壁の内側へ伝わってくる。

壁には、色紙を剥ぎ取ったらしい跡があった。
跡の色は、周囲の壁の色とくらべると少し汚れが少ない。

まるでそこだけ時間の経過が遅れている感じである。
その印象が、五月雨のように、名残惜しい気分に染み込んでくる。
去年亡くなった杜国のことなど、様々な過去の思い出が、芭蕉の脳裏をよぎっていく。

「それにしても」と芭蕉は思う。
「私が来るというので、去来は壁の色紙を外したのだろうか?」と。
「障子も貼り替えてあったし、庭の草むしりもしてあったし・・・」
「その色紙には、いったいどんな句が書かれていたことだろう。」と、芭蕉が思ったかどうか。

五月五日、芭蕉は「落柿舎」を出、洛中小川椹木(さわらぎ)町上野沢凡兆宅に移る。


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