津軽半島旧稲垣村の「化粧地蔵」

【地蔵堂。】


お盆の墓参りに出かけた墓地で、何気なく地蔵堂を覗いたら、新しい地蔵像が安置されていた。
新しい地蔵像が安置されるということは、最近この地域で幼い命や未婚の若者にご不幸があったか。
あるいは、縁のある地蔵様が古くなったので、新たに建立したのか。


【今風のお地蔵様。】


「化粧」で甦るお地蔵様

上の写真のように、新しい地蔵像の材質は、現代の墓石材である花崗岩(御影石)だった。
古い像は、砂岩や凝灰岩を彫ったものと思われ、素朴さが漂っている。
なかにはセメントを練って作ったコンクリート製のような像もある。
縁者の手製なのか。

それに比べて花崗岩製の地蔵像は、滑らかで端正な表情をしている。
おそらく、レーザーとかで機械彫り。
手彫りの素朴な相貌は、見られない。

つがる市稲垣地区のお地蔵様は「化粧地蔵」と呼ばれるものがほとんど。
今は、昔ほど「化粧」が施されていないようである。
「化粧」は薄くなったが、カラフルな衣類は昔と変わらない。

着物の生地に可愛い模様が多いのは、主に幼い子どもの供養であるからなのだろう。
亡くなった子どもが身につけていた衣類の生地を用いて、地蔵様用に仕立てたものもあるのかもしれない。

古くなって石が風化したお地蔵様が、「化粧」で甦る。
衣類を着せることによって、往時の姿を取り戻す。

地蔵像を「化粧」することは、「再生」への悲痛な願いのように思える。


【奥の方に古い地蔵像。】


旧稲垣村の「化粧地蔵」の思い出

私は小学生の頃、一度だけ化粧地蔵のメイクを行ったことがある。
夏休みに、私が住んでいた集落の子供会行事に参加したのだった。
確か、盆前の行事だったと記憶している。

旧稲垣村の各集落には、お地蔵様を祀った小祠や地蔵堂が点在していた。
私の集落では、三十体ぐらいの地蔵像が安置された小さな地蔵堂があって、地蔵堂の前は小さな広場になっていた。

集落の子ども会が、お地蔵様の「化粧」を行った

まず、上級生の指導のもと、子ども会のメンバーで集落を回り、地蔵様への現金の寄進を募った。
集落の各家から頂いたお金を持って村の雑貨店へ行き、「化粧(色塗り)」の材料を購入。

残念ながらこのあたりから、もう記憶があいまいになる。
「化粧」の材料は、学校の教材である水彩絵の具だったような気もするが・・・
稲垣村で「餅色」と呼んで、「干し餅」の着色に使っていた「食用色素」だったような記憶もある。

私の頭では、後者の記憶の方が勝っているのだが・・・・
それから、チョークを使ったような記憶もうっすらとある。
なんとも頼りない次第で・・・・

材料を買って余ったお金で、お菓子やジュースをたくさん買った。
これは、しっかりと覚えている。

「化粧地蔵」が仕上がるまで

お地蔵様の「化粧」の手順は、記憶があいまいな部分も多いが、以下のようであった。
参加人員は10人ぐらいで、作業は日中に行った。
  1. まず、お地蔵様に手を合わせる。
  2. 古くなった衣類を脱がす。
  3. 地蔵堂近辺の農業用水路から汲んだ水でお地蔵様を洗う。
  4. 下塗りにお地蔵様の像全体を白チョークで塗りつぶし、布切れや指でこすって表面を平滑にする。
  5. 「餅色(食用色素)」を水で溶いて、筆で彩色。
  6. 目や鼻を黒色で、口を赤色で描く。
  7. 頭髪も描いたような・・・・
  8. 衣類もカラフルに描いた。
  9. 上級生の采配で、夕暮れまでに一通り描き終えるように作業を進めた。
  10. 「化粧」できれいになったお地蔵様の前に、買ってきたお菓子やジュースをお供えして手を合わせた。
  11. 作業終了の後は焚き火をして、古くなったお地蔵様の着物を燃やした。
  12. 焚き火を囲んで、お菓子を食べながら子ども達で団らん。
  13. 上級生の掛け声で、解散。めいめい帰宅。
(4)と(5)と(7)については、記憶が定かでない。
確かこうであったような気がするという程度のもの。

「化粧」の描き方は、上級生の指導があったようだが、めいめい自由に腕をふるった。
各メンバーのセンスが問われた楽しい「仕事」だった。

お地蔵様の新しい着物は、後で親族や縁者の方が着せたようである。
縁者のいないお地蔵様は、私達が描いた衣服を身にまとって、奥の方に控えたのだった。

今にして思えばお地蔵様の色塗りは、幼くして亡くなった子ども達と生きている子どもたちの歓談だったような気がする。
集落の大人たちは、亡くなった子ども達と私達を遊ばせることによってその霊を供養しようとしたのかもしれない。

そう考えると、津軽地方の地蔵信仰とは「再生」を願う「思慕」の祈りのように思えてくる。
なお(11)の焚き火は、「お焚き上げ供養」を意味していたと思われる。
(12)の、お地蔵様の前でそろってお菓子を食べたのは「同食信仰」だったのだろう。

【※同食信仰とは、お供えしている物を仏様と分かち合う習慣のこと。同じものを食べると心が通じ合うという考え方。


【丸彫り型の地蔵像が多いが、後背が付いている舟形地蔵像もちらほら見える。】


津軽地方で親しまれ愛されていたお地蔵様

インドに起源をもち、中国を経て日本に渡来したという地蔵信仰の詳細について、私はほとんど知らない。
おそらく、地蔵像を建立した村の人々も、地蔵菩薩についての仏典などを読んで知識を得、お地蔵様を崇めている人は少ないのではあるまいか。

津軽地方では、理屈を抜きにしてお地蔵様は他の菩薩様よりも親しまれ愛されていたように思える。
民間における篤い信仰の対象として、お地蔵様が建立されたと私は感じている。

旧稲垣村の「化粧地蔵」は、専門の僧職や地域のお寺が指導するわけではない。
集落の子ども会の上級生や子ども会を見守る大人、集落の「地蔵講」の年配の女性たちが、その風習を拠り所として、子ども達を指導していたように記憶している。

「化粧地蔵」は死者の「再生」を願う「思慕」の表れ

津軽地方の地蔵信仰は、既成の寺院宗教の及ばぬ世界だったのではあるまいか。
私が住んでいた集落の「化粧地蔵」は「再生」と「思慕」を念頭においた地蔵信仰であったと確信している。

夭折した子どもや未婚の若い男女の霊魂にお祈りし、若くして亡くなった良人に祈りを捧げる。
その祈りは、「再生」への願いだったのではあるまいか。

「イタコの口寄せ」の「再生劇」

旧稲垣村から、そう遠く離れていない五所川原市金木町川倉に「川倉賽の河原地蔵尊」がある。
その例大祭には「イタコの口寄せ」が行われている。
「思慕」の念が募るあまりに「イタコの口寄せ」を依頼する親族や縁者は、亡くなった者が甦る「再生劇」を間近に体験するのである。

津軽半島の地蔵信仰は、既成の宗教観とは異なり、もっと身近で分かりやすい死生観を拠り所にしていたのだと思う。
「川倉賽の河原地蔵尊」には立派な本堂があり、管理しているのは金木町にある既成の寺院であるが、「川倉賽の河原地蔵尊」を支えているのは土着の信仰心ではないだろうか。

津軽地方の土着の死生観が「化粧地蔵」を育んでいた

日本の地蔵信仰は、京都がルーツだとされている。
京都周辺の若狭湾に面した地域、京都府宮津市などには「化粧地蔵」が多く安置されているという。

そういう京都の文化が、「北前船」を介して津軽地方に広まったとされている。
だが、津軽の地蔵信仰は京都の信仰形態をそのまま踏襲したものではないであろう。

津軽の地蔵信仰は、京都地方から伝わった信仰に土着の死生観が「習合」したものではないかと私は推測している。
津軽地方土着の死生観が「口寄せ」をする巫女である「イタコ」を登場させ、死者の「再生劇」を演じさせている

その死生観は、「化粧地蔵」にも通じて、「再生」を祈る行為として地蔵像を「化粧」し衣類を着せる風習を育てたのではないだろうか。

この私の感想は、地蔵信仰についてのフィールドワークから得たものでは無い。
津軽地方独特の習俗のなかで少年時代を過ごした私の直感である。

もうひとつ、私の直感で言えば、化粧地蔵の前垂れの十字模様は津軽地方にいたという隠れキリシタンの名残ではなくて、この世とあの世の交差点である「賽の河原」を暗示しているのではないだろうか。
旧稲垣村に、「化粧地蔵」の数ほどキリスト教信者がいたとは聞いたことがない。
地蔵菩薩がいらっしゃるという「賽の河原」を十字で表せば、お地蔵様の前垂れとして説得力があるのではないだろうか。

旧稲垣村教育委員会の労作

なお、旧稲垣村教育委員会が「稲垣村民俗信仰調査報告書」という資料を1995年に発行している。
この調査資料は、かなりの労作であると聞いたことがある。
この資料には旧稲垣村の「化粧地蔵」についての仔細が明記されているとのこと。

それによると、津軽地方でもっとも「化粧地蔵」が多いのは旧稲垣村であるという。
それだけ旧稲垣村では幼児の死亡率が高かったのだろう。
もう六十七歳になろうとしている私には、はるか昔の出来事。

それにしても、旧稲垣村教育委員会が稲垣村の民俗信仰について、緻密なフィールドワークを行っていたとは驚きだ。
機会があったらぜひ読みたい資料である。


【十字模様の前掛けにはどんな意味が?今は衣類だけ新調されて、化粧は施されていない。】


【堤防の脇の大きめな地蔵像(左端)。僧の像(左)と、仏法や仏教徒の守護神像(右)。】

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