北の旅人
町外れの飲食店街の奥に小高い丘があった。
その丘に、居酒屋が一軒。
赤ちょうちんが風に揺れているのが見えた。
飲食店街の小路の中ほどから細い石段が、丘の上へ通じている。
その石段を上がると、潮の香りが一層濃くなった。
居酒屋の背後にある黒松の林の向こうには、暗い海が広がっている。
岬の町は、暗い海とは対象的に、小さな灯りが寄り集まっていた。
丘の上からは、その様子が、平穏で慎ましい物語のように見えた。
人の温もりが軒を連ねている町と、暗くて荒々しい海との境目。
平穏な物語と不穏な物語の間で赤提灯が風に揺れていたのである。
暖簾をくぐってガラス戸を開けると、目の前に和服姿のマグロが立っていた。
珊瑚色の単色の袷に、花柄の袋帯を締めている。
珊瑚色の明るさが、顔の黒さを際立たせていた。
「いらっしゃい、あら、この辺のお方じゃないわね」
マグロの女将はそう言って、ポンと破ったポリ袋からおしぼりを取り出して私に差し出した。
白っぽい襦袢の半襟から伸びている頭部はマグロだが、腕や腰は年増女のもののように見えた。
「そう、この土地は初めてだよ」と私は女将の挨拶に応えて、ビールを注文した。
ここは本州北端の地。
マグロの女将がいても不思議ではない。
私の脳裏に、南島の町へ捜査に行ったときの記憶が蘇った。
泊まったホテルの支配人は、スーツを着たハブだった。
そのハブ支配人に左の手のひらを咬まれ、私は瀕死の重症を負ったのだった。
あのハブに比べればマグロの方がまだいい。
マグロは毒を持っていない。
「お客さんは人を探していらしたんじゃないの」
女将はビールの栓を抜きながら、大きなマグロの目で私をジロジロ見ている。
「こんな北の果てに他所からおみえになる方は、男から逃げている女か、女を追ってきた男ぐらいですわ」
マグロ女将は、私から目を離さずに、奥へ声をかけた。
「ちょっとあんた、また人探しのお客さんがいらしたわよ」
奥から出てきた板前風の男は、カラフトマスだった。
小柄ながらも盛り上がった背中の筋肉。
鋭い目つきが、ただの板前ではないことを示している。
カラフトマスは長い刺身包丁を手にして出てきた。
「お客さんも女を追ってきたのかね?」
愛想のいい顔で話しかけてきたが、目は笑っていなかった。
「すると以前にもどなたか、人を探してここにやってきたのですか?」
私はビールを飲みながら、慎重に尋ねた。
某国の女スパイを追ってきた男が、この町で消息を絶っていた。
一瞬、板前は息を止めて全身の筋肉をバネのように縮め、それからゆっくりと息を吐きながら筋肉を緩めた。
私の筋肉も同じような反応をしたので、それがよくわかった。
消息を絶った男は、私の前任の捜査官だった。
場の緊張をほぐそうとしてか、女将が朗らかに言った。
「お客さん、何かお召し上がりになりません?いろいろと美味しい料理ができますわよ」
私は美味しい刺身が食べたかった。
この北の町は、魚の美味しいところと聞いている。
だが、マグロ女将とカラフトマス板前がいる店で、魚の刺身を注文するのは気がひけた。
それよりも、私は重大な間違いを犯していたことに気がついた。
拳銃のホルスターを左側の腰につけていたのだ。
左利きだった私は、ハブに左手を咬まれてから左手では銃を扱えなくなっていた。
銃を撃つ手を右手に替えていた今、ホルスターは右の腰につけるべきなのだ。
そうでないと動作がスムーズに行えない。
うっかりして、昔の習慣から左の腰にホルスターを装着してしまったのだった。
私は静かに左手でホルスターからリボルバーを抜き、それを左の太腿の上に置いた。
リボルバーを右手で握るには、右手を左側にクロスさせなければならない。
カウンターの陰になっていても、そんな下手な動きをしたら、カラフトマスに悟られてしまう。
すぐさま柳刃包丁が私の首めがけて飛んで来るに違いない。
平穏な町と、原子力潜水艦が航行する海峡。
この居酒屋は、そのどちらにも赤提灯を揺らしているレッドゾーンなのだ。
私は息をのんでカラフトマスの動きに備えた。
それに気がついたマグロ女将が、カウンターの下からショットガンを取り出し、銃口を私に向けた。
世界屈指の軍用ショットガンと言われているロシアのヴェープル12だ。
「お客さんもあの男のお仲間だったのだねえ」
私が右腕を動かせば、柳刃包丁が私の首を刺し、ショットガンが私を吹き飛ばすことだろう。
これで終わりかと腹を決めたとき、思いがけなく私の口から歌が洩れた。
「たどりついたら 岬のはずれ 赤い灯が点く ぽつりとひとつ・・・・・」
石原裕次郎の「北の旅人」だった。
それはこの北の地で滅んでいくであろう自分自身への鎮魂歌だった。
すると何を勘違いしたのか、カラフトマスが言った。
「ボス、こいつはマイトガイですぜ」
「えっ、マイトガイって、あのギターを持った渡り鳥のマイトガイなのかい」
マグロ女将がカラフトマスのほうへ目を向けた。
ふたりは「信じられない」という様子で、お互いの目を見つめあった。
私は、その一瞬を見逃さなかった。
クロマグロとカラフトマス目掛けて、素早くリボルバーの引き金を引いたのだった。
さらば異国のスパイたちよ。
マイトガイは裕次郎じゃないよ、小林旭だよ。
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その丘に、居酒屋が一軒。
赤ちょうちんが風に揺れているのが見えた。
飲食店街の小路の中ほどから細い石段が、丘の上へ通じている。
その石段を上がると、潮の香りが一層濃くなった。
居酒屋の背後にある黒松の林の向こうには、暗い海が広がっている。
岬の町は、暗い海とは対象的に、小さな灯りが寄り集まっていた。
丘の上からは、その様子が、平穏で慎ましい物語のように見えた。
人の温もりが軒を連ねている町と、暗くて荒々しい海との境目。
平穏な物語と不穏な物語の間で赤提灯が風に揺れていたのである。
暖簾をくぐってガラス戸を開けると、目の前に和服姿のマグロが立っていた。
珊瑚色の単色の袷に、花柄の袋帯を締めている。
珊瑚色の明るさが、顔の黒さを際立たせていた。
「いらっしゃい、あら、この辺のお方じゃないわね」
マグロの女将はそう言って、ポンと破ったポリ袋からおしぼりを取り出して私に差し出した。
白っぽい襦袢の半襟から伸びている頭部はマグロだが、腕や腰は年増女のもののように見えた。
「そう、この土地は初めてだよ」と私は女将の挨拶に応えて、ビールを注文した。
ここは本州北端の地。
マグロの女将がいても不思議ではない。
私の脳裏に、南島の町へ捜査に行ったときの記憶が蘇った。
泊まったホテルの支配人は、スーツを着たハブだった。
そのハブ支配人に左の手のひらを咬まれ、私は瀕死の重症を負ったのだった。
あのハブに比べればマグロの方がまだいい。
マグロは毒を持っていない。
「お客さんは人を探していらしたんじゃないの」
女将はビールの栓を抜きながら、大きなマグロの目で私をジロジロ見ている。
「こんな北の果てに他所からおみえになる方は、男から逃げている女か、女を追ってきた男ぐらいですわ」
マグロ女将は、私から目を離さずに、奥へ声をかけた。
「ちょっとあんた、また人探しのお客さんがいらしたわよ」
奥から出てきた板前風の男は、カラフトマスだった。
小柄ながらも盛り上がった背中の筋肉。
鋭い目つきが、ただの板前ではないことを示している。
カラフトマスは長い刺身包丁を手にして出てきた。
「お客さんも女を追ってきたのかね?」
愛想のいい顔で話しかけてきたが、目は笑っていなかった。
「すると以前にもどなたか、人を探してここにやってきたのですか?」
私はビールを飲みながら、慎重に尋ねた。
某国の女スパイを追ってきた男が、この町で消息を絶っていた。
一瞬、板前は息を止めて全身の筋肉をバネのように縮め、それからゆっくりと息を吐きながら筋肉を緩めた。
私の筋肉も同じような反応をしたので、それがよくわかった。
消息を絶った男は、私の前任の捜査官だった。
場の緊張をほぐそうとしてか、女将が朗らかに言った。
「お客さん、何かお召し上がりになりません?いろいろと美味しい料理ができますわよ」
私は美味しい刺身が食べたかった。
この北の町は、魚の美味しいところと聞いている。
だが、マグロ女将とカラフトマス板前がいる店で、魚の刺身を注文するのは気がひけた。
それよりも、私は重大な間違いを犯していたことに気がついた。
拳銃のホルスターを左側の腰につけていたのだ。
左利きだった私は、ハブに左手を咬まれてから左手では銃を扱えなくなっていた。
銃を撃つ手を右手に替えていた今、ホルスターは右の腰につけるべきなのだ。
そうでないと動作がスムーズに行えない。
うっかりして、昔の習慣から左の腰にホルスターを装着してしまったのだった。
私は静かに左手でホルスターからリボルバーを抜き、それを左の太腿の上に置いた。
リボルバーを右手で握るには、右手を左側にクロスさせなければならない。
カウンターの陰になっていても、そんな下手な動きをしたら、カラフトマスに悟られてしまう。
すぐさま柳刃包丁が私の首めがけて飛んで来るに違いない。
平穏な町と、原子力潜水艦が航行する海峡。
この居酒屋は、そのどちらにも赤提灯を揺らしているレッドゾーンなのだ。
私は息をのんでカラフトマスの動きに備えた。
それに気がついたマグロ女将が、カウンターの下からショットガンを取り出し、銃口を私に向けた。
世界屈指の軍用ショットガンと言われているロシアのヴェープル12だ。
「お客さんもあの男のお仲間だったのだねえ」
私が右腕を動かせば、柳刃包丁が私の首を刺し、ショットガンが私を吹き飛ばすことだろう。
これで終わりかと腹を決めたとき、思いがけなく私の口から歌が洩れた。
「たどりついたら 岬のはずれ 赤い灯が点く ぽつりとひとつ・・・・・」
石原裕次郎の「北の旅人」だった。
それはこの北の地で滅んでいくであろう自分自身への鎮魂歌だった。
すると何を勘違いしたのか、カラフトマスが言った。
「ボス、こいつはマイトガイですぜ」
「えっ、マイトガイって、あのギターを持った渡り鳥のマイトガイなのかい」
マグロ女将がカラフトマスのほうへ目を向けた。
ふたりは「信じられない」という様子で、お互いの目を見つめあった。
私は、その一瞬を見逃さなかった。
クロマグロとカラフトマス目掛けて、素早くリボルバーの引き金を引いたのだった。
さらば異国のスパイたちよ。
マイトガイは裕次郎じゃないよ、小林旭だよ。
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