子どもの頃、私はこの家の長い廊下でよく遊んだ。
縁側の長い廊下に沿って、ガラス戸の向こうに広い庭があったが、外に出ることはなかった。
庭には、苔の生えた石灯籠があったり、朽ちたお社のような建物があったり、濁った沼があったりで、陰鬱な様子が怖かったのである。
庭の草薮に棲んでいる蛇が廊下に上がりこんで来たこともあった。
ガラス越しの陽光で、大きな蛇が日向ぼっこをしていたのである。
そんなことが度々あったので、縁側のガラス戸は堅く閉じられるようになった。
長い廊下の奥の灰色がかった漆喰壁に火灯窓がはめ込まれていて、雨の日には、よく窓枠から雨水が染み込んでいた。
火灯窓の左手に、厚い板戸で仕切られた部屋があった。
半分開いた板戸からは、格子状に組まれた太い角材の檻が見えた。
檻の内で、私の父が暮らしていた。
廊下の奥から聞こえる罵り声や泣き声や笑い声は、狂人である父が発したものだった。
子どもの私は、長い廊下を歩いて、ちょくちょく座敷牢を訪れていた。
それが見つかると、家の者に強引に居間に戻された。
居間には、居間で暮らしている父がいた。
のっぺらぼうな感じの、表情の読み取れない母がいた。
居間の父と母は、座敷牢に行くたびに私をなぐってこらしめたが、数日過ぎるとまた座敷牢を訪れるのが私の癖になっていた。
座敷牢の父は、私の顔を見るといつも穏やかになった。
体が小さかった私は、格子の隙間をくぐり抜けて、よく檻の内で父と遊んだ。
父は、私を膝の上に乗せていろんな話をしてくれた。
その話が面白くて、私は座敷牢通いを続けていたのだった。
そんな私に見切りをつけたのか、居間の父はしだいに何も言わなくなっていた。
母は、もともと何も言わない人だった。
私の座敷牢通いは自由になった。
いつしか私は、座敷牢のなかで父と暮らすようになった。
父の話は壮大で、私は檻の内でまだ見ぬ世界を思い描いていた。
私が18歳になったとき、父は座敷牢の内でひっそりと亡くなった。
朝に目を覚ますと、隣の父は穏やかな表情で息を引き取っていた。
私は、これを機会に檻の外へ出ようと思ったが、居間の父がそれを許さなかった。
遅かれ早かれ、おまえはこういう運命になるのだと父は私を蔑んだ。
もう小さくないので、私は格子の隙間をくぐり抜けることも出来なかった。
私は自分の運命を呪い、泣きわめき、そして嘲笑った。
そんな日々が続いたある日、檻の前の廊下で、小さな男の子が私を見ているのに気がついた。
「ほら、くぐっておいで、おれと遊ぼう」と私はその子に声をかけた。
その子は利発そうな目をして、じっと私を見つめるだけだった。
お伽噺にも、怪奇物語にも、幻想譚にも興味を持つことのない怜悧な視線。
このとき私は悟った。
私が子どものとき、こんな目をしていたら、こんな目にはあわなかったろうと。
長い廊下の奥から、家族団欒の笑い声が聞こえる。
父と母と子どもの楽しそうな会話が聞こえる。
あの陰鬱な庭は、埋められて、今は高層アパートが建っている。
火灯窓は取り払われて、大きな透明ガラスのFIX窓がついている。
FIX窓の向こうのビル街の上に、月が上っているのが見えた。
ゆらゆらと揺れている蒼い月の姿がなつかしかった。
座敷牢のなかで狂死した父の、蒼然とした顔色に似ていた。
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2020/05/19
メタセコイアの果実の殻の「松ぼっくり」
![]() |
勝田公園のメタセコイア |
今では公園樹として、多くの公園で見ることができるメタセコイアの樹木。
メタセコイアは、「アケボノスギ」という和名でも知られている。
古代から存在している樹木なので、「生きている化石」と呼ばれたりしている。
愛犬の散歩コースである勝田公園にも数本の「生きている化石」が植わっている。
今朝、そのメタセコイアの木の下を歩いたとき、無数の小さな「松ぼっくり」のようなものが落ちているのに気がついた。
この場所は、何十回も通っているので、今までに気がつかなかったということは無いはずである。
なんとなく目に入っていたが、それほど気にとめなかったのだろう。
今朝は、その「松ぼっくり」の可愛らしさが、特に目についた。
で、拾い上げてよく見ると、松の「松ぼっくり」よりも頑丈に出来ているようである。
乾燥した松の「松ぼっくり」ほどバサバサしていない。
触った感じは硬くて、よく締まっている。
殻の大きさは、大きいものでも2センチ×3センチぐらい。
乾燥して開いた鱗片の奥を覗き込むと、種子は見えない。
去年の秋に落下して、内側の種子が飛び散ってしまったようだ。
鱗片の陰になっている奥の方に、球果の芯のような柱のようなものが見える。
じっと見つめていると、メタセコイアの乾燥した球果が、巨大な建造物のように見えてくるから不思議だ。
いっときミクロの世界を旅した気分になった。
こういう不思議な感覚を体験させるために、この「松ぼっくり」が地面に転がっているのではないかと思えてくる。
大王松の大きな松ぼっくりは魔除けになると聞いたことがある。
メタセコイアの「松ぼっくり」も、クリスマスリースのパーツに使われたりしているから魔除けになるのかもしれない。
そう思って、三個拾ってポケットに入れた。
また、松ぼっくりは豊作のシンボルでもある。
魔除け(疫病除け)と豊作なら、アマビエ様の守備範囲。
魔や疫病は、古代でははびこっていたのだろうから、アマビエ様も古代の妖怪信仰のオブジェであったに違いない。
メタセコイアの果実の殻もまた、太古の怪しい力を感じさせるオブジェとして、私のポケットに収まっている。
これを魔除けとして、玄関の下駄箱の上に飾っておこう。
訪問客が玄関先でたじろいだら、その方は魔かもしれない。
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果実の殻の「松ボックリ」 |
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落ちている殻の拡大写真 |
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メタセコイアの可愛い果実殻 |
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鱗片が尖った唇のようで面白い |
2020/05/13
老事務員のお金の話
経理の仕事は、簡単に言えば、会社のお金の流れを記録することです。
現金や預金の管理とか、売上の入金確認とか、経費管理などが私の日々の業務でございます。
自分で言うのもなんですが、そんじょそこらの老いぼれではありません。
頭は、かなりしっかりしています。
計算を違えたことは、ありません。
会社上層部からの信任も厚いです。
頭は、かなりしっかりしています。
計算を違えたことは、ありません。
会社上層部からの信任も厚いです。
この道50年、コツコツと帳簿をつけながら、お金の動きを見さしてもらっています。
この仕事から得たことは、お金は生き物であるということです。
そして、生き物だと気がついたときから、お金は生き物としての振る舞いを私に見せつけるようになったのです。
人はお金を手にとって、額を数えたり代金を支払ったりします。
それは、人がお金に触っているのですが、同時にお金もまた、人に触っているのです。
それは、人がお金に触っているのですが、同時にお金もまた、人に触っているのです。
お金が人に触って、居心地が良いかどうか、その人を値踏みしているのです。
お金とは、そういう生き物なのです。
お金とは、そういう生き物なのです。
私の長年の経験では、お金は群れで行動します。
一匹狼のお金ってのは、あまりお目にかかったことがございません。
集まってくるときも大群なら、出て行くときも群れをなして出て行きます。
まるで獣の群れみたいなものです。
実際に獣の群れなんか見たことがないのですが、お金の動きを見ていると、見たことのない獣の群れが目に浮かんでくるのでございます。
鋭い牙からヨダレを垂らしながら獲物を狙う獣の群れです。
その群れが、遠くからじっと人間を観察しているのです。
鋭い牙からヨダレを垂らしながら獲物を狙う獣の群れです。
その群れが、遠くからじっと人間を観察しているのです。
奇怪なものです。
夜に事務室で一人ソロバンを弾いていると、ヒソヒソ声が聞こえてくるときがあります。
あれは、お金の群れが何かを相談しあっているのです。
まるで悪童連中が寄り集まって、なにか悪さの相談でもしている風であります。
もちろん、私みたいな平社員は、会社のお金に触れることはできません。
お金は、社長とか会社の経営に携わっている幹部の方達の手に触れています。
手に触れて、彼らを探っているのです。
手に触れて、彼らを探っているのです。
ほら、ああやって、お金が人の体に触れて、探りながらなにやら相談している様子が、万年平社員の私には、よく見えるのでございます。
お金の出入りを「金運」という言葉で説明なさる方がいらっしゃいますが、それは違います。
お金の出入りは、もっと露骨な、生き物としての欲望なのです。
お金が人に触れて人を選ぶというのは、そういうことなのです。
このお金の欲望の妖怪的な存在感は、「金運」などという神々しいイメージではありません。
獣の群れのように、勢力を拡充しながら移動していく実態です。
この怒濤のような動きには「金運」などが入り込む余地はありません。
お金は「運」ではなく、生き物なのですから、生き物としての実態を持っているのです。
人に対して、欲の深い生き物としてつきまとうのがお金なのです。
その実態のひとつですが、お金は速い事が好きです。
速い動きを、嬉々とした表情で、しかも、ものすごい勢いで追いかけます。
そんなお金の動きを、私は何度も目撃しています。
ですから、お金を得ようとお思いでしたら、速く動くことです。
のんびり構えていては、お金を捕まえることはできません。
反対に、お金に喰われてしまいます。
そんなお金の動きを、私は何度も目撃しています。
ですから、お金を得ようとお思いでしたら、速く動くことです。
のんびり構えていては、お金を捕まえることはできません。
反対に、お金に喰われてしまいます。
雑然とした、まとまりのないことを申しました。
これ以上のことは、なにも申せません。
私は、ただの事務員として、この職に就いて50年を生きてまいりました。
高等な教育も受けていません。
マルクスもケインズも、名前は聞いたことがありますが、彼らの経済学のことはまったく知りません。
高等な教育も受けていません。
マルクスもケインズも、名前は聞いたことがありますが、彼らの経済学のことはまったく知りません。
私がお金について抱いている考えは、高等な学問によるものではなくて、私が実感したことなのです。
この目で見たことによるナマの実感でございます。
この目で見たことによるナマの実感でございます。
あ、それから、もうひとつ。
これが、いちばん大事なことかも知れません。
お金という生き物は、「無料(ただ)」を憎みます。
「無料」が大嫌いなのです。
「無料」とは、ただこれだけで他には何も要りませんということです。
「これだけ」とは、「無料」のレッテルを貼られた品々のことです。
それを耳にしたら獣たちは憤ります。
「俺達がいないと生きられないくせに、俺達が不要だってか」と高い丘の上から人間を見下ろしますんです。
ですから、「無料サービス」などというものはいけません。
絶対やっちゃいけません。
それをやると、丘の上から駆け下りてきたお金に突き飛ばされてしまいます。
お金に突き飛ばされて、踏みつけられて、ぺしゃんこにされてしまいます。
くれぐれもご用心くださいませ。
「無料」が大嫌いなのです。
「無料」とは、ただこれだけで他には何も要りませんということです。
「これだけ」とは、「無料」のレッテルを貼られた品々のことです。
それを耳にしたら獣たちは憤ります。
「俺達がいないと生きられないくせに、俺達が不要だってか」と高い丘の上から人間を見下ろしますんです。
ですから、「無料サービス」などというものはいけません。
絶対やっちゃいけません。
それをやると、丘の上から駆け下りてきたお金に突き飛ばされてしまいます。
お金に突き飛ばされて、踏みつけられて、ぺしゃんこにされてしまいます。
くれぐれもご用心くださいませ。
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