原尞氏の探偵沢崎シリーズ第二作「私が殺した少女」を読んだ感想
ハヤカワ文庫「私が殺した少女(原尞 著)」 |
原尞(はら りょう)氏の探偵沢崎シリーズ第一作の「そして夜は甦る」が、それなりに面白かったので、その流れで第二作目の「私が殺した少女」を読んだ。
この小説は、第百二回直木賞の受賞作とのことである。
「私が殺した少女」もまた「そして夜は甦る」同様、読み始めたら止められない読物だった。
ノンストップ・サスペンス映画のように、次から次へと新展開が続き、ページの先へ先へと読書スピードが加速する類の小説であった。
その点では、読者を退屈させない小説であると言えるだろう。
様々な人たちが登場し、それぞれの人物描写が小説に立体感をもたせているように感じられた。
登場人物たちの人生の断片が、物語に現実味を帯びさせている。
事件を担当する目白署の刑事たちの個性的なふるまいも、エンタメ読物として面白い。
その反面、エピソードがてんこ盛りで、雑多で寄せ集め的な印象も強く感じた。
「私が殺した少女」は、ヴァイオリンの天才奏者と評判の高い11歳の少女の、誘拐殺人事件を軸に展開する物語である。
誰が誘拐犯であるのか。
少女は、なぜ殺されてしまったのか。
誘拐犯は、探偵の沢崎を身代金の運び役に指名したのだが、沢崎は身代金を運搬中に何者かに後頭部を殴られて気絶してしまう。
沢崎が気がついたときは、彼の愛車(ブルーバード)のトランクに入れていた身代金の入ったレンガ色のスーツケースが消えていた。
はたして身代金は誘拐犯の手に渡ったのか、それとも第三者によって持ち去られたのか。
なぜ?どうして?と謎は深まるばかり。
探偵の沢崎が「私」という一人称で語る物語なので、読者は読み進めていくうちに「私」という探偵の視点で事件と様々なエピソードを見るようになる。
そこが作者(原尞氏)の手腕なのだろう。
作者は読者をあっちこっちに引っ張りまわし、読者がもうかなわんわと思う頃、突然結末を突きつける。
真犯人はこの人でございてな感じで。
そこが短絡過ぎて、説得力ある脈絡に欠けているように感じたのは私(ブログ管理人)だけだろうか。
バイク乗りやインテリアデザイナー、作家志望の若いホモセクシャルの男と、誘拐犯候補者が次々と現れ、ついに本命かと読者が思った頃、事件解明は振り出しに戻ってしまう。
じゃ、前半のドタバタ騒ぎは何だったのかと読者の不満が募る。
読者の不満をめいっぱい募らせてから、作者は沢崎を事件解決に向かわせる。
沢崎が被害者家族の邸宅を訪れ、わずか10数枚のページで少女の父親や母親を白状させてしまうのだ。
そこで読者は、少女の事故死を家族ぐるみで偽装した誘拐事件だったと知るのである。
はたして探偵沢崎は、いつごろからこの真相に気づいていたのだろう。
読者は沢崎と同じ視線で事件を追っていたはずだが、いつのまにか目くらましをくらったような結末になる。
偽装誘拐殺人事件の「被害者」である少女の家族とは、作家の父とその妻(母)、そして兄である中学生の少年。
この少年は、些細な理由での妹(少女)とのケンカによる事故で、少女に瀕死の重傷を負わせてしまう。
そして、少女の生死を確かめることなく自分が事故死させたと思い込む。
父親も、兄(少年)が妹(少女)を事故死させたのだと判断してしまう。
もうページ数が尽きようとするとき、母親が瀕死の娘(少女)の首を絞めて殺したのだと夫に告白する。
しかも、このことは沢崎が見抜いていたことなのだと、36章でいきなり作者は描いている。
35章まで沢崎は、誘拐殺人犯は作家志望の若いホモセクシャルの男だと確信していたようなのに。
しかも探偵は突然、この男(ホモセクシャル)が少女の父親である作家のゴーストライターではないのかと作家に迫る。
ゴーストライターという伏線もなく、いきなりに。
このミステリーの最大の謎は、なぜ探偵の沢崎が36章ですべてが解ってしまったのか、ということかもしれない。
前半でボリュウムを使いつくしたから、なんてことはないよね。
案外35章でこの小説が終わっていれば、沢崎に対して敵意や好意を抱いた少年の行動や、少女の葬儀の会場で沢崎に憎悪を示した少女の母親の行動に対して、読者は違和感を覚えずに済んだのかもしれない。
そう思うのは、未熟な読者である私だけだろうか。
原尞氏の探偵沢崎シリーズ第二作「私が殺した少女」を読んで、そう感じた次第である。