「躑躅生けてその陰に干鱈割く女」と太宰治の「干鱈」
愛知県立大学図書館・貴重書コレクション・泊船集1-0018より。掲出句は左から二句目。この句集の表記では「ツゝしいけて其陰に干鱈さく女」となっているが、当ブログ記事での掲出句の表記は「芭蕉年譜大成(著:今榮藏)」に依っている。 |
太宰治の紀行文で、自伝的な小説でもあるとされている「津軽」。
その「二・蟹田」には、主人公の「私(太宰)」が蟹田在住の旧友や旧友の知人達と歓談する様子が描かれている。
そんな「二・蟹田」で「私(太宰)」は、松尾芭蕉についての「独白(語り)」を繰り返している。
「独白(語り)」のなかの、干鱈(ひだら)についてのものが興味深い。
干鱈といふのは、大きい鱈を吹雪にさらして凍らせて干したもので、芭蕉翁などのよろこびさうな軽い閑雅な味のものであるが、Sさんの家の縁側には、それが五、六本つるされてあつて、Sさんは、よろよろと立ち上り、それを二、三本ひつたくつて、滅多矢鱈に鉄槌で乱打し、左の親指を負傷して、それから、ころんで、這ふやうにして皆にリンゴ酒を注いで廻り、
太宰治の名人芸であるなあと、トーシロの私は感動してしまうのだが。
それはそうと、太宰治が干鱈の話に芭蕉翁を持ち出したのはどういう意図なのだろう。
「干鱈の味」→「軽い閑雅」→「芭蕉翁」という連想。
「陸奥(みちおく・みちのく)の奥ゆかしくぞ 思ほゆる 壺の碑(いしぶみ)外の浜風」と詠った西行のあこがれの奥州北限の歌枕の地「外が浜(外の浜)」に、芭蕉も強くあこがれていたと言われている。
その芭蕉の思いは、「国分山幻住庵記(芭蕉の署名付き)」に以下のように記されている。
猶(なお)うとふ啼くそとの浜辺より、ゑぞが千嶋をみやらむまでと、しきりにおもひ立ち侍るを、同行(どうぎゃう)曽良何某(なにがし)といふもの、多病心もとなしなど、袖をひかゆるに心たゆみて、きさがたといふ処より越路(こしじ)におもむく。(今榮藏著:芭蕉年譜大成より抜粋)
「国分山幻住庵記」にある「そとの浜辺」とは「外が浜」のことであり、蟹田もその「外が浜」地域に含まれている。
太宰治が「二・蟹田」で、しきりに芭蕉翁を引き合いに出しているのは、蟹田は芭蕉のあこがれの地でもあるんだぞと暗に示しているようにも受け取れる。
そこで「私(太宰)」が食べた「干鱈の味」を無理無理「軽い閑雅」と食レポし、「軽い閑雅」なら「芭蕉翁」だと関連づける。
私(ブログ運営者)なんかは干鱈の味は「軽い閑雅(しとやかで優雅なこと・もの静かで、趣き深いさま)」どころではなく、野趣あふれる濃厚な味わいだと思っているのだが。
太宰治は、干鱈をかじりながら、松尾芭蕉の「干鱈」の発句を思い浮かべたのではなかろうか。
躑躅生けてその陰に干鱈割く女
つつじいけて そのかげに ひだらさくおんな
松尾芭蕉
「泊船集」におさめられている発句である。
句の前書きに「昼の休らひとて、旅店に腰をかけて」とある。
「芭蕉年譜大成」によると貞享二年の三月中旬ごろ「野ざらし紀行」の途上、大津より東海道筋を下るころの発句とされている。
松尾芭蕉四十二歳のときの作である。
六(初句)・五(二句)・八(結句)の破調が妙に心地いい。
ときどき芭蕉は、こうしてズージャに興じていたのでは。
なんて冗談は、ともかくとして。
器に生けた赤いツツジの花の陰で、人目をはばかるように干鱈をむさぼっている女。
私は「干鱈」の発句に、そんなイメージを思い浮かべた。
干鱈をむしって食べる姿は、品の良いものではない。
まして女性なら、なおのこと。
茶店の台に腰をかけてお茶をすすっているとき、芭蕉はツツジの花の陰に隠れて干鱈を食べている女を見かけたのだろう。
旅の女なのか、店の女なのか。
仮に店の女だとすれば、ツツジを花瓶かなにかに生けたのもその女なのだろう。
ツツジの陰で、客に出すために干鱈をむしっていたと想像できる。
干鱈は、いちど口にしたら止まらない。
女は、ちょくちょくつまみ食いをしているうちに止まらなくなった。
次々と赤い口のなかへ、むしった干鱈を放り込む。
食い意地むき出しの女の赤い口と、閑雅な赤いツツジの花との対比。
ちょっとエロチックでもある。
色彩豊かで絵画的でユーモラスな発句であると私は感じている。
これは「軽い閑雅」どころか、かなり濃厚な味わいである。
太宰治のユーモラスな作風を彷彿させる雰囲気を持っている句だと思う。
太宰治が蟹田で芭蕉の「干鱈」の句を本当に思い浮かべたとしたら、「軽い閑雅」と述べたのは、芭蕉翁にたいするユーモアだったのかもしれない。
そういえば太宰先生は、「天狗」でも芭蕉翁をイジッテいたなあ。