2021/11/07

青森県七戸町にある巨木、大銀南木(おおいちょうのき)

農村公園駐車場から大銀南木(おおいちょうのき)を眺める。

先週の「天間舘一里塚の巨大なケヤキ」に引き続き、今日も七戸町の巨木見物に出かけた。
「大銀南木(おおいちょうのき)」という名前の大きなイチョウの木が、中野川沿いの山裾に黄金の枝を広げて立っている。

所在地は、
青森県上北郡七戸町銀南木。
イチョウが立っている場所の地名も「銀南木(いちょうのき)」となっている。
それほど、このイチョウの木は、古くから土地の人々に親しまれてきたのだろう。

ここの土地は、七百数十年の間「大銀南木」に見守られてきたのだから、イチョウの巨木が土地の人たちの信仰の対象になるのは、ごく自然なことのように思われる。

人間の寿命と比べれば、「大銀南木」は生物として「超人的」である。
付近一帯に生息している樹木たちと比べても、「超木的」。
人間が考えている自然のスケールを、はるかに超えているから、神聖な存在なのである。

神聖な存在を敬うという素朴な信仰心。
人々の信仰心に、圧倒的な存在感で応えている「大銀南木」。
「大銀南木」と人々との関係が、毎年、秋になると黄金風景となって再現される。

「大銀南木」の周囲は、この地区の農村公園になっている。
紅葉の時期なので、農村公園の駐車場は見物客の乗用車でいっぱいだった。
見物客たちは、カメラを片手に黄金風景を楽しんでいる。

黄金の落葉絨毯の上で、一歳未満に見える子どもとその母親が遊んでいたのが印象的だった。
一歳に満たない人間を七百数十歳の巨木が見下ろしている。
陽の下での、七百数十年の記憶。
その記憶から見たら、ほとんどゼロに近い子どもの記憶。

ゼロに近い子どもの記憶に、黄金風景が加わる。
七百数十年の記憶に、落葉の上で遊ぶ稚児が加わる。

巨木と稚児の間で、記憶交感がなされている。
そうやって、巨木は、まだまだ生きる。
稚児は、これからどんどん成長していく。
「大銀南木」は、そんな黄金風景だった。

なお「大銀南木」は、昭和31年(1956年)に青森県の天然記念物に指定されている。

根元近くに祠が安置されている。「乳信仰」の祠か。

七戸町教育委員会による説明看板。

上の看板の記事を下に抜粋する。
五庵川原(ごあんがわら)と大銀南木(おおいちょうのき)
この地に縁の深い法身国師(ほっしんこくし)は、丈治五年(1184年)の春、常陸国真壁郡(ひたちのくにまかべのこおり〔茨木県中部〕)に生まれ、文永十年(1273年)洞内村洞内(十和田市)の地に八十五歳で入寂(にゅうじゃく)した。
 法身は俗名を平四郎といって、十八歳ごろ真壁(まかべ)の城主、左衛門尉経明(さえもんのじょうつねあき)のぞうりとり(下足番)であったが、寒風下の主人の下足を懐中で保温したことで主人の怒りに触れて面を割られる。平四郎はその下駄を拾ってその場を去る。後日、仏縁(ぶつえん)によって入宋(にゅうそう〔中国〕)して径山寺(けいざんじ)で修業し、ついに臨済禅(りんざいぜん)によって大徳(だいとく)と敬われるようになり、法身国師の法号を賜る。その後、郷里の真壁に照明寺(しょうみょうじ)開山教化の実を上げ、後に松島(宮城県)の青竜山円福寺(せいりゅうざんえんぷくじ・のちの瑞巌寺〔ずいがんじ〕)開山に時の執権北条時頼から招かれるに至る。ここでも「大徳の教化に参禅の徒四方より雲集」とある。
 国師は後日の栄耀(えいよう)を嫌って、みちのく糠部(ぬかのぶ)は倉岡川の上流に庵(いおり)を結んだ。弘長三年(1263年)国師七十五歳であった。この地に安住する国師のもとに訪ねて来たのは、旧主の経明公主従四人であった。経明公は道無の法号を許されてついに法身の弟子となり、里人が今に伝えて五庵川原(ごあんがわら)または御庵川原と呼ぶように五人の庵(いおり)ができ、その礎石と井戸などが最近まで残っていたと言われている。
 ここにある銀南木は、国師の手植えと伝えられ、七百十余年の樹齢を数え、樹高二十六メートル、幹囲十二メートル余で樹相雄大、夏の緑は奥ゆかしく、秋の黄葉はまた周囲の風情と呼応して一大景観を呈している。樹勢は幹の周囲に多数の乳垂を見、大枝が伸びて地に達して子樹となり生々無限である。
 
 昭和五十七年三月
                      七戸町教育委員会


巨大な幹。

樹齢約七百五十年の木肌。

黄金の落葉の上で遊ぶ親子。子どもは一歳未満に見える。イチョウの幹のあたりに下垂する多数の気根が見える。この気根を乳房に見立てて「子守イチョウ」とも呼ばれている。このイチョウは、銀杏(実)がないので、雄である。雄なのに乳房とは、面白い。

輝くイチョウの黄葉。

山側から「大銀南木」を眺める。

一本の木が黄金の森。