2022/03/27

夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く

「国立国会図書館デジタルコレクション」より。


高校生の頃、小倉百人一首に親しんでいた時期があった。

小倉百人一首は、藤原定家が選んだとされている秀歌撰のこと。
藤原定家は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した歌人である。

藤原定家が京都の小倉山の山荘で、百人の歌人の和歌をひとり一首ずつ選んだものが、「小倉百人一首」の原型になったと言われている。


この百人一首に選ばれている歌は、調子が良くて読みやすく覚えやすいものが多かったので、私にとって親しみやすかったのである。

好きな歌がいくつかあったが、下記の歌もそのひとつだった。

夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く

この歌は、歌番号71番の大納言経信(だいなごんつねのぶ)の作とされている。
第一句の「夕されば」にしびれた。
秋の夕暮のざわざわしたような哀愁を強く感じたのだ。

だが私は、この歌を長い間まちがって覚えていた。
第四句の「蘆のまろやに」を「蘆の苫屋に」と覚えていたのである。
当時の私は、「まろや」という見知らぬ言葉よりも、よく歌に出てくる「苫(とま)」とか「苫屋(とまや)」に親近感を覚えていたのである。

この歌は、音楽的な響きが美しいと感じていた。
それが、いっそう哀感を引き立てている。

「夕されば」と「稲葉」の「ば」の脚韻。
「蘆」と「秋風」の「あ」の頭韻。

それに加えて、私の勘違い。
「門田」の「ど」と「おとづれて」の「と」と「苫屋」の「と」も韻を踏んでいて調べが良いと勝手に思い込んでいた。

「まろや(丸屋)」も「とまや(苫屋)」も、粗末な家や小屋のことで、意味的にはそんなにかけ離れたものではないと後になって知ったのだが。

私の間違いを指摘してくれたのは、北区の居酒屋で知り合った早稲田出の工員だった。
彼は、私より三歳年上で、競馬好きの男だった。
いつも作業着で店にあらわれて、日本酒をツケで飲んでいた。
年中金欠病の、自称「無頼派」だった。

この無頼派は、えらく物知りでもあった。
ある日、タバコの焦げ跡だらけのカウンター席で、百人一首のことが話題になった。
私は好きな歌である「夕されば」を「ゆうされば かどたのいなば おとづれて あしのとまやに あきかぜぞふく」とボソボソ声で口ずさんだ。

早稲田出の工員の年中金欠病の無頼派は、にわかに得意顔になった。
「ゆうなれば」と彼はダジャレを交えて口を開いた。

「『まろや』も『とまや』も『ま』と『や』が共通で、意味も似たようなものやけど、歌の言葉は正確に覚えんといかんがや」

彼は「とまや」は間違いで「まろや」が正解なのだとうれしそうに講釈した。
だが私には、高校時代に百人一首の歌を五十首近く丸暗記したという、はかない自負があった。
言われてみればたしかに、「とまや」よりも「まろや」の方が、歌の調べが美しいと感じたのだったが。

物知り無頼派と勘違い自負男が口論すれば、行きつく先は罵り合いの大喧嘩だ。

その後、ツケのたまっていた無頼派は店に来なくなったという。
私も、本屋で確認して自分の間違いに気づき、大口をたたいたのが都合悪くなって、店へは足が遠のくようになった。

いい飲み友達だった。
年配の女将も「おみゃあさんらは、気が合うねえ」と言っていたのだが。
若気のなんとか。

それから五年ぐらいたった頃、見覚えのある染色工場の工員と夕暮の商店街でばったり出会った。
彼は私に、無頼派が半年前に肝硬変で亡くなったことを教えてくれた。
「あんたのこと、えらくほめとったよ」
と生前の思い出話をしてくれた。

秋の夕暮のざわざわしたような哀愁。

私は、そのままアパートの部屋にもどった。
窓の外で、枝を伸ばしているハコヤナギの葉が、風で擦れ合ってカサカサと音を立てていた。

夕されば門田の稲葉おとづれて蘆のまろやに秋風ぞ吹く