2022/07/01

豊島与志雄の短篇小説「乾杯ー近代説話ー」読書メモ

インターネットの電子図書館「青空文庫」より。

「乾杯」は、豊島与志雄の「近代説話」シリーズ第一作目とされている。
前回の「沼のほとり」は第二作目であるとのこと。

「乾杯」は、短い物語の割には、フルネームの登場者が多い。
ほんのチョット出の登場者にもフルネームが与えられているのは、どういう訳だろうか。

登場シーンがわずかでも名前が記されれば、その人物は物語の中で存在感が強調される。
最小限の叙述でも、人物像がクローズアップされる。
幅の短い短篇小説に奥行きを出そうとする試みだろうか。

そんな登場人物のメモを取れば、話の筋が浮き上がってくる。
登場人物のメモは、あらすじよりも、物語を理解するうえで役に立つ場合がある。
という訳で下記は、感想まじりの私的メモである。

山川正太郎

物語の中心人物。
年齢は、四十歳越え。
資産家で事業を営んでいた山川正吉の息子(おそらく長男)で後継者。
戦中や戦後の出来事や、会社の事業に対しても、消極的な態度をとってきた人物。
「飲酒と無為との独自孤高な生活」を好むインテリゲンチャのひとり。
自身の無力感を酒に酔うことで紛らわしているような節がある。
塚本堅造が、正吉亡き後、陰謀や策略をめぐらしていることを不快に感じている。

山川正吉

正太郎の父親。
「終戦の年の暮、父の正吉が肺炎であっけなく他界した・・・」という書き出しで、この物語が始まっている。
説明的な箇所に登場するのみ。
資産家で事業を営んでいたが、放漫な生活のために山川家の資産状態を悪化させていた。

加納春子

山川正太郎の母親の従兄筋にあたる加納家の末の娘。
戦争未亡人。
軍人であった亡夫との間に信一という名の子どもがいる。
正太郎と自由に抱擁を許しあう恋愛関係。
酒に溺れがちな正太郎の精神状態を気にかけている様子がみられる。
ちょっと理知的な雰囲気を持っている女性。

信一

加納春子の息子。
親子で鎌倉にある山川家の別荘に住んでいる。

塚本堅造

山川正吉の鞄持ちだった老人。
山川家の資産状態や親戚関係を詳しく知っている。
正吉亡き後、後継者である正太郎を抜きにして、勝手な計画や策略をめぐらしているようなところがある。
戦時下や戦後を、陰で暗躍して利を得てきた策略家のひとりなのだろう。
正太郎を軽く見て、山川家に自由に出入りしている。

上原稔

山川家所有の会社の工場長。
実直な働き者。
ミガキ鋼板を売却しようとする塚本老人の計画に対して反感を抱いている。
戦後の経済を立て直した逞しい労働者の代表的な存在。

本間利行

新しい某政党の若い総務。
塚本老人と結託している様子が見られる。
正太郎を政治の世界で利用しようとしている魂胆が感じられる。
陰で暗躍して利を得ようとする輩か?
宴会の退席時にのみ登場。

野島

実業家。
正太郎の比較的新しい親友。
宴席に正太郎が招待しなかった友人として、名前だけの登場。
おそらく正太郎のインテリ仲間。

曽田

科学者。
正太郎の比較的新しい親友。
宴席に正太郎が招待しなかった友人として、名前だけの登場。
おそらく正太郎のインテリ仲間。

中田

文学者。
正太郎の比較的新しい親友。
宴席に正太郎が招待しなかった友人として、名前だけの登場。
おそらく正太郎のインテリ仲間。

上記のほかに、正太郎の母親、山川家の女中、加納春子の夫が、無名で地の文に登場している。

この物語には、乾杯の後に山川正太郎が、床にグラスを叩きつけて割るシーンが二回ある。
一回目は、上原稔への返答の後に。
二回目は、加納春子への返答の後に。
それぞれの約束に対して、山川正太郎が強い決意で臨んでいることを表している。
しかし、このときの山川正太郎は、かなり酔っている様子なので、決意が実行されるかどうかは不明である。

小説の中ほどに、山川正太郎の行動を暗示するような以下の文がある。
まったくのところ、決意に似た感慨にすぎませんでした。終戦後、民主主義の線に沿う社会革命が、急速に進みつつあるような外観を呈しながら、実は健全に進行するかどうかの見通しは未だつきませんでしたし、殊に経済的には、如何なる混乱が突発するか分りませんでした。その不安定な時勢のなかで彼は、恰も戦争中に積極的に動かなかったように、やはり積極的に動こうとはしませんでした。ただ、飲酒と無為との独自孤高な生活を、これではいけないと思いました。なにか新たな生活を、幻想的に追求しました。資産の危殆も却って快いものに思われました。そして新たな出発線を、亡父の五十日忌に置きました。そういうものに頼ったところに、彼の決意の浅さ弱さがあったとも言えましょうか。
戦時下も戦後も、そんなに生活に困窮していない中流階級に身を置いている主人公。
また文化的な知識人でもある主人公の、無力感が伝わってくる小説である。

事業にも政治にも恋愛に対しても積極的になれず、ただ飲酒によって「醒めながら酔い、酔いながら醒める」世界を彷徨している無力なインテリゲンチャの「説話」である。

戦後の再出発を決意して、乾杯というポーズに酔いしれているように見える山川正太郎。
科学者や文学者などの知識人に囲まれていても、塚本堅造や本間利行のような知略に長けた俗物によって行く末を左右されるという現実が、乾杯と言うポーズを、一層喜劇的なものにしている。

実直な労働者である上原稔の理想もまた、指導力を失いつつある山川正太郎によって実現を阻まれるかもしれない。
べったりと山川家に貼り付いている塚本老人の老獪さに翻弄されるであろう若旦那の正太郎は、ますます書斎にこもりがちになるのだろう。

最後のシーンでの、書斎の窓の外は、白布を敷きのべたような月明かり。
乾杯も決意も返答も、暗転して白紙に戻りそうな予感の真っ白な月明かりである。


(※赤文字部分は小説からの抜粋)