内田百閒の小説「旅順入城式」を読んだ感想
203高地(パブリックドメイン)。 |
読み応えのある小説
内田百閒の「旅順入城式」を読んだ。小説の題名になっている「旅順入城式」とは、日露戦争で日本軍が旅順の要塞を占領した際の歩兵の「入城」行進を示していると思われる。
旅順攻略で日本軍は、遼東半島南部(旅順・大連)の租借権をロシアから継承し、日露戦争を大勝利のうちに終わらせたとされている。
「旅順入城式」は、日露戦争を題材にして書かれた短篇小説である。
「旅順入城式」を読み終えた後、改めて読んでみて、この小説の短さに驚いた。
最初読んだときに、モノクロームの長編映画を観るような印象を持ったからである。
それだけ「旅順入城式」は読みごたえのある小説だった。
映像的
小説「旅順入城式」は、以下の文で始まる。五月十日、銀婚式奉祝の日曜日に、法政大学の講堂で活動写真の絵があったから、私も見に行った。淡々とした文章で始まる「旅順入城式」は、かなり映像的な小説となっている。
講堂の窓に黒い布を張って、中は真暗だった。隙間から射し込む昼の光は変に青かった。
読者は、主人公の「私」を見、「旅順開城」の記録映画を観ることになる。
黒い幕で遮光された講堂に立ってスクリーンを観ている「私」と、あたかも「私」の脳裏にでも映っているような記録映画のなかの兵士である「私」を、小説の読者は同時に見るのである。
日露戦争
「旅順開城」の記録映画は、出征軍が横浜の伊勢佐木町の通りを行くところから始まる。兵隊の顔はどれもこれも皆悲しそうであった。私はその一場面を見ただけで、二十年前に歌い忘れた軍歌の節を思い出すような気持がした。日露戦争は1904年(明治37年)2月に始まり、翌年の9月に終わっている。
主人公である「私」は、その20年後の1925年(大正14年)あたりに「旅順開城」の記録映画を観ていることになる。
内田百閒が、文芸誌「女性」に「旅順入城式」を発表したのが大正14年。
1889年生まれの作家は、この小説の発表当時36歳になっていたはずである。
作家と主人公の「私」を重ね合わせてみれば、「私」が16歳の少年だったときに、今は忘れてしまった軍歌を歌っていたことになる。
16歳当時は、軍国少年だった「私」が想像される。
「歌い忘れた軍歌」とは、「ここはお国を何百里」で始まる「戦友」ではないだろうか。
悲哀感あふれる「戦友」の歌詞と、記録映画のなかの兵士たちの悲しそうな顔が重なる。
かつて軍国少年だった「私」は、そう感じたのだろう。
それは戦闘の実際を知らないまま軍国少年になった「私」自身の悲しさでもあったと思われる。
ちなみに、田山花袋は日露戦争に従軍記者として戦地に赴いている。
その体験をもとに書いた「一兵卒」という短編小説が、明治41年1月に「早稲田文学」に発表されている。
内田百閒は、「一兵卒」に登場する兵士の苦悶と悲哀を、「私」という兵士を通して「旅順入城式」のスクリーンに映し出したのかもしれない。
読者も、小説を読みながら旅順を取り巻く悲しい山の姿を見つめることだろう。
暗い空の下で兵士たちが殺し合い、砲弾で山もろとも兵士たちが吹き飛ぶ。
その一番激しい戦闘の下に旅順口がある。
「私」が講堂で見た、暗幕の隙間から射し込む「青」い光。
その光が、スクリーン上の旅順の山山を「青色に写し出」している。
そう感じた「私」は、ごく自然に、映像の兵士の一群に加わり始める。
こうして読者は、映画を観ている「私」が青い光に導かれて過去の映像の戦地に登場するのを観るのである。
兵士たちが喘ぎ喘ぎ大砲を山に引っ張り上げる映画のシーンを見て「私」は、隣にいる者に「苦しいだろうね」と口を利く。
だが、隣にいる者は返事をせずに、「はあ」と誰だかが答える。
隣にいる者も、「はあ」と言った者も、「私」の「苦しいだろうね」という問いかけを理解できない。
おそらく、映画の見物人には、「私」が見ているものとは違う世界が見えているのだろう。
いや「私」が、見物人には見えない世界を見ているのか。
なぜなら、「私」は記録映画の観客のひとりであると同時に、眼前の旅順にいる兵士のひとりでもあるからだ。
そのあと「私」は「首を垂れて、暗い地面を見つめながら、重い綱を引張って一足ずつ登って行った。」
日本兵が、無残な姿で戦場に散っていくシーンはカットされている可能性もある。
そこで内田百閒は、記録映画を観ている「私」が、映像の戦地の一兵士でもあるという幻想を小説のスクリーンに映し出して、読者に見せている。
幻想のなかの「私」は、旅順で戦闘を体験している。
「活動写真の会」に詰めかけた大勢の観客が激しい拍手で将校に応える。
「旅順入城式」の隊列の中の「私」は、講堂での観客の拍手を聞きながら涙を流す。
その「私」にたいして、隣を歩いている男(兵士)が「泣くなよ」と言った。
二十年前の記録映画の戦地に入っていった「私」が、隣の戦友に「泣くなよ」と慰められる。
同時に、二十年前の記録映画のなかにいる兵士が、現代に蘇えって、悲哀に満ちた映像を見て涙を流している「私」に「泣くなよ」と声をかける。
二十年前と今がひとつになり、旅順と法政大学の講堂がひとつになる。
そういう幻想世界を創り上げることで、内田百閒は、二十年後も続いている「戦勝気分」に違和感を呈したのではあるまいか。
記録映画を観ていた観客の拍手は、その「大国意識」に対する拍手であったのだろう。
「大国意識」の犠牲となって異国の山の陰で死んでいった人々の列が「旅順入城式」だった。
その列に対して「激しい拍手」を促しているのが「むくむくと膨れ上がって、手足だか胴体だかわからないような姿の一連れ」なのかもしれない。
このデフォルメされた勝利者の姿を、大正14年の今を生きている作者は、どんな「意」を込めて描いたことだろう。
小説の最後は、以下の描写で締めくくられている。
どんなところに何があるのかわからないのが山。
そんな山を歩いていて、予想していた風景や、予想していなかった風景に出会うのは楽しい。
ひとりの人が書いた小説を天然の山にたとえるなんて、と思われるかもしれないが。
ひとりの人の手で書かれた小説であっても、小説は歴史と文化によって育てられた「言葉」で書かれている。
小説の「言葉」は、山の森同様に様々な出来事を内含している。
その言葉の森を散策して、自分なりに何かを見つけることは、山歩きの楽しさに似ている。
「旅順入城式」のような短い小説であっても、松尾芭蕉の十七文字の俳諧であっても、その楽しさは変わらない。
今回「旅順入城式」を数回読み返して、感じたことのひとつを、最後に書いてみた。
色文字部分:小説からの抜粋
参考文献:ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」内「旅順入城式」
作家と主人公の「私」を重ね合わせてみれば、「私」が16歳の少年だったときに、今は忘れてしまった軍歌を歌っていたことになる。
16歳当時は、軍国少年だった「私」が想像される。
「歌い忘れた軍歌」とは、「ここはお国を何百里」で始まる「戦友」ではないだろうか。
悲哀感あふれる「戦友」の歌詞と、記録映画のなかの兵士たちの悲しそうな顔が重なる。
かつて軍国少年だった「私」は、そう感じたのだろう。
それは戦闘の実際を知らないまま軍国少年になった「私」自身の悲しさでもあったと思われる。
ちなみに、田山花袋は日露戦争に従軍記者として戦地に赴いている。
その体験をもとに書いた「一兵卒」という短編小説が、明治41年1月に「早稲田文学」に発表されている。
内田百閒は、「一兵卒」に登場する兵士の苦悶と悲哀を、「私」という兵士を通して「旅順入城式」のスクリーンに映し出したのかもしれない。
作家の手法
旅順を取り巻く山山の姿が、幾つもの峰を連ねて、青色に写し出された時、私は自分の昔の記憶を展(ひら)いて見るような不思議な悲哀を感じ出した。何と云う悲しい山の姿だろう。峰を覆う空に光がなくて、山のうしろは薄暗かった。あの一番暗い空の下に旅順口があるのだと思った。名文だなあと感じた。
読者も、小説を読みながら旅順を取り巻く悲しい山の姿を見つめることだろう。
暗い空の下で兵士たちが殺し合い、砲弾で山もろとも兵士たちが吹き飛ぶ。
その一番激しい戦闘の下に旅順口がある。
「私」が講堂で見た、暗幕の隙間から射し込む「青」い光。
その光が、スクリーン上の旅順の山山を「青色に写し出」している。
そう感じた「私」は、ごく自然に、映像の兵士の一群に加わり始める。
こうして読者は、映画を観ている「私」が青い光に導かれて過去の映像の戦地に登場するのを観るのである。
兵士たちが喘ぎ喘ぎ大砲を山に引っ張り上げる映画のシーンを見て「私」は、隣にいる者に「苦しいだろうね」と口を利く。
だが、隣にいる者は返事をせずに、「はあ」と誰だかが答える。
隣にいる者も、「はあ」と言った者も、「私」の「苦しいだろうね」という問いかけを理解できない。
おそらく、映画の見物人には、「私」が見ているものとは違う世界が見えているのだろう。
いや「私」が、見物人には見えない世界を見ているのか。
なぜなら、「私」は記録映画の観客のひとりであると同時に、眼前の旅順にいる兵士のひとりでもあるからだ。
そのあと「私」は「首を垂れて、暗い地面を見つめながら、重い綱を引張って一足ずつ登って行った。」
映画を観る観客であると同時に、映像の中の旅順で苦悶している兵士でもある「私」。
内田百閒のこういう描写に、私は作家の独特の手法のようなものを感じた。
隠された現実を幻想世界で見る
陸軍省の提供になる記録映画は、ドイツの観戦武官が戦場の現実を映したものではあるが、国民の戦意を高揚させるために、日本側で編集されている可能性は否めない。日本兵が、無残な姿で戦場に散っていくシーンはカットされている可能性もある。
そこで内田百閒は、記録映画を観ている「私」が、映像の戦地の一兵士でもあるという幻想を小説のスクリーンに映し出して、読者に見せている。
幻想のなかの「私」は、旅順で戦闘を体験している。
二百日の間に、あちらこちらの山の陰で死んだ人が、今急に起き上がって来て、こうして列(なら)んで通るのではないかと思われた。「私」がそう感じた時、「旅順入城式であります」と講堂の演壇に立っている将校が告げる。
「活動写真の会」に詰めかけた大勢の観客が激しい拍手で将校に応える。
「旅順入城式」の隊列の中の「私」は、講堂での観客の拍手を聞きながら涙を流す。
その「私」にたいして、隣を歩いている男(兵士)が「泣くなよ」と言った。
二十年前の記録映画の戦地に入っていった「私」が、隣の戦友に「泣くなよ」と慰められる。
同時に、二十年前の記録映画のなかにいる兵士が、現代に蘇えって、悲哀に満ちた映像を見て涙を流している「私」に「泣くなよ」と声をかける。
二十年前と今がひとつになり、旅順と法政大学の講堂がひとつになる。
そういう幻想世界を創り上げることで、内田百閒は、二十年後も続いている「戦勝気分」に違和感を呈したのではあるまいか。
拍手
日露戦争後、日本は南満州をも日本の勢力圏下にしていくという帝国主義路線を推し進め、多くの国民が「大国意識」を抱くようになったとされている。記録映画を観ていた観客の拍手は、その「大国意識」に対する拍手であったのだろう。
暗がりに一杯詰まっている見物人が不意に激しい拍手をした。一人の兵士となって、戦場の悲哀に打ちのめされている「私」にとって、その拍手は、まさに「不意」なものだったに違いない。
「大国意識」の犠牲となって異国の山の陰で死んでいった人々の列が「旅順入城式」だった。
その列に対して「激しい拍手」を促しているのが「むくむくと膨れ上がって、手足だか胴体だかわからないような姿の一連れ」なのかもしれない。
このデフォルメされた勝利者の姿を、大正14年の今を生きている作者は、どんな「意」を込めて描いたことだろう。
小説の最後は、以下の描写で締めくくられている。
拍手はまだ止まなかった。私は涙に頬をぬらしたまま、その列の後を追って、静まり返った街のなかを、何処までもついて行った。
戦地の悲哀に拍手をする見物人。
兵士の死や苦悶に対して、戦勝気分で拍手をする民衆。
この断絶された意識と空間に幻想の隙間を見出して、「私」は過去の映像の中に埋没していく。
小説を読む楽しさ
小説を読む楽しみは山を散策する楽しみに似ている。どんなところに何があるのかわからないのが山。
そんな山を歩いていて、予想していた風景や、予想していなかった風景に出会うのは楽しい。
ひとりの人が書いた小説を天然の山にたとえるなんて、と思われるかもしれないが。
ひとりの人の手で書かれた小説であっても、小説は歴史と文化によって育てられた「言葉」で書かれている。
小説の「言葉」は、山の森同様に様々な出来事を内含している。
その言葉の森を散策して、自分なりに何かを見つけることは、山歩きの楽しさに似ている。
「旅順入城式」のような短い小説であっても、松尾芭蕉の十七文字の俳諧であっても、その楽しさは変わらない。
今回「旅順入城式」を数回読み返して、感じたことのひとつを、最後に書いてみた。
色文字部分:小説からの抜粋
参考文献:ちくま文庫 内田百閒集成3 「冥途」内「旅順入城式」