内田百閒の短篇小説「神楽坂の虎」を読んだ
トラのイラスト。 |
「夢」を小説に
「夢」を小説にすることは、容易なことではない。と思われる。
「夢」は、断片的なイメージの集まりで、散文的な文脈を持っていない。
何よりも目覚めたときに、見た「夢」の記憶を失ってしまうことがほとんどである。
内田百閒は、そういう「夢」を「神楽坂の虎」という小説にした。
内田百閒は、そういう「夢」を「神楽坂の虎」という小説にした。
「夢」は、個人的な体験や、その人の内面に因るところ多いので、多くの読者の関心を惹くには、「工夫」が必要である。
散文として成り立たせるための創作や編集が必要である。
とブログ管理人は、トーシロなりに考えている。
さて、「神楽坂の虎」にはどんな「工夫」が潜んでいるのだろうか。
通常なら、夢の中の「私」が消えて、夢の外の「私」へと目覚める。
現実の広い世界に目覚めるのだが。
この小説では夢の外の「私」が消えて、「私」が夢の中の狭い空間に取り残されてしまう。
主人公は、広い市街地から狭い押し入れの中へと、虎によって追い込まれる。
そして細く開けた押し入れの戸の隙間から、目に見えないものの存在が自身に迫っているのを感じて恐怖する。
夢の中の「私」の視界がだんだん狭まり、それに従って読者の視界も狭まる。
そういう視覚的な変化も「工夫」のひとつなのだろう。
夢を自覚
主人公の「私」は、これが夢であると知りつつ夜の街を歩いている。「私」は、夜の神楽坂を歩いている夢を見ていることを自覚している。
そのうちに、夢の中の「私」を見ている「観劇者」の「私」が、何時の間にか夢の中へ引き込まれてしまう。
「観劇者」の「私」が、何時の間にか消えてしまうのだ。
「何時の間にか」が何時なのか。
物語の道筋をたどってみよう。
神楽坂の牛込見附へ下りる坂の方へ向かって右側にある幅の広い横町の先へ、家内と、以前手伝いに来ていたおこうさんというおばさんとが行っている。何しに行ったのかはわからないが、後から私が出かけてその横町へ行った。先の方が降り坂になっている。本当は神楽坂にそんな横町はないが、私がその横町のだらだら坂を下りた時が丁度夜中の十二時であった。こんな書き出しで、物語が始まる。
「本当は神楽坂にそんな横町はないが」と、これが夢であることを自覚しつつ、「私」は夢を見ている。
虎の出現
神楽坂で家内とおこうさんと会った「私」は、急に鮨が食べたくなる。開いている鮨屋を探して歩いていると、大きな虎が五~六頭、道の両側にたむろしているのに出会う。
小石川の白山下の辺りでは、夜になると、どの家でも飼い犬を表へ出して放すと云う話を聞いて寝たので、その話の飼い犬が虎になったのかも知れない。そう自覚しつつ、「私」は夢の中の街を、鮨屋を探して歩き続ける。
そうしていると、「赤い物がほしい」と云う虎に後をつけられる。
このあたりで、おこうさんが登場しなくなる。
おこうさんが消えることで、夢を見ている「私(観劇者)」が少し消える。
ようやく見つけた鮨屋で鮨を注文していると、後をつけてきた虎がじっと「私」の方を見ている。
お鮨どころではない。家内が向こう側へ行って、虎がこっちへ渡ってこない様に構っている。羽織を脱いで与えた。羽織の裏が赤い。本当は家内は婆だから赤い裏ではないが、赤かった。まだ「私」には、夢の自覚があるようだ。
鉄砲撃ちの小父さんの登場
このとき、旧式らしい鉄砲を持った小父さんが現れる。鉄砲には、「大変煙の出る弾」が二発入っているという。
小父さんが鉄砲を撃って、虎を殺す。
このあたりから、家内の登場が無くなる。
勇敢な家内が消えて、虎の存在感がいっそう強大になる。
夢を見ている「私(観劇者)」が、また、少し消える
この後訪れた座敷で、「私」は後をつけて来た虎を大きな鮨桶を被せて圧し潰してしまう。
そのうえ、虎の胴体を二つに叩き斬る。
大変な仕事であったが、自分ながらえらい力だと思う。暴虎馮河(ぼうこひょうが)の暴虎、虎を手博ちにするとはこの事である。
「夢」の自覚が消える
自身の無謀な行為を自慢げに思う「私」に、もう夢の自覚は無い。何時の間にか、「観劇者」の「私」は消えて、夢の中の「私」が唯一の「私」となる。
先述した「何時の間にか」とは、この時なのだ。
座敷で「私」に「飛んでもなく大きな鮨桶」を渡した背の高い女中によって、「私」は夢の世界で意志的に活動する主人公となるのである。
「私」は、虎退治を鉄砲撃ちの小父さんに頼もうとしていた。
「大変煙の出る弾」で虎を煙に巻き、虎をごまかして、その戦意を殺ごうという企みでも持っているかのように。
だが、夢の自覚が消えた「私」は、虎と直面して、生々しい行動に出る。
自らの手で、虎を圧し潰し鉈で胴体を叩き斬った。
残虐な行動に出ることによって、夢が存在の場となり、鉄砲撃ちの小父さんは非存在となって消える。
その後、座敷でくつろいでいると、一番大きな虎が現れ、「私」は押し入れの中に隠れる。
物語は以下の文章で終わりを迎える。
座敷の畳が白白と白けている。中から見えない所にある何だか解らない物の影が畳の上に射している。しかし虎の影ではない。その影は丸で動かない。辺りがしんとして何の物音もしない。ただ虎の気配ばかりで息も出来ない。身体じゅうの骨が、からだの中で石の様に重たくなった。
消える登場者たち
夢の中の狭い空間(押し入れ)に取り残された「私」に虎の姿は見えない。夢の中には私しかいない。
夢の中に登場した何人かの印象深い人物たち。
家内や鉄砲の小父さんや背の高い女中や、虎さえも消えてしまった静かな世界で、「何だか解らない物の影」に怯えている「私」だけが残る。
逆転?
「中から見えない所にある何だか解らない物の影が畳の上に射している」の「中から」とは、押し入れの中からのことであり、それは夢の中からのことである。そして、「何だか解らない物の影」は押し入れの外、つまり夢の外にいるのである。
何時の間にか、夢の外から夢の中を見ていた「私(現)」が消えて、夢の中に取り残された「私(夢)」が、夢の外を覗き見ている。
夢の外の「私(現)」や登場人たちを消した「何だか解らない物の影」は、虎同様に獰猛な「私」の影なのかもしれない。
虎を叩き斬った「私」と鉄砲撃ちの小父さんは、物語のなかで好対照をなしている。
旧式の鉄砲を持った、なんとのどかな小父さんであることか。
物語は、この好対照を軸にして逆転している。
「神楽坂の虎」に、夢の外の「私」の言葉として「本当は」が二度出てくる。
「本当は」とは、「現実では」という意味なのだが、夢の中の実像としての「私」から見れば、現実の「本当」も「嘘」も、虚像(本当ではない)に見えるのかも知れない。
夢の中に取り残された経験の無い、あるいは、そういう思考回路の無い当ブログ管理人には、「かも知れない」という感想しか持ちえないのである。
色文字部分:小説「神楽坂の虎」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成4 「サラサーテの盤」に収録の「神楽坂の虎」