内田百閒の短篇小説「桃葉」を読んだ感想
最近読んだ「桃葉」という短い小説も面白かった。
「桃葉」は昭和13年に、「文学」5月号に発表された小説である。
(小説「桃葉」が「宴会の場面」という一幕芝居なら、吠える犬は拍子木の役割をはたしている。犬の吠え声で、読者は物語に覚醒する。)
やがて、知らない男が入って来て、「私(主人公)」の隣に座った。
「私」は、この男に構わずに桃の枝の一輪挿しのことを誰に話すともなく語り始める。
すると、この男が話に割り込んできて、「私」の過去の行状を問い詰め始める。
弱っている栗鼠の子を閉じ込めたボール函をさげて、その栗鼠を気にもかけずに、夕方までピアノの演奏を聴いていたこと。
演奏会の帰りに、鰻屋へ寄って、酒を飲み過ぎてあばれたこと。
リスがまな板の上で死んだことを女中から聞かされて、またあばれたこと。
やっと家まで帰り着いて、桃の枝の一輪挿しの葉をちぎって部屋を散らかしたこと。
男は「インチキ野郎」と「私」に罵声を浴びせて、突き出した「真黒い拳」でお膳を割ってしまう。
その後、以下の文章で物語が閉じられている。
そして、「気持ちがはっきり」してきた頃には、もう男は退出していた。
だから、男の正体は不明である。
不明であるということは、様々な想像が可能であるということ。
この小説を怪異小説として読めば、おそらくこの男は、栗鼠の子の化身なのだろう。
自分を虐げた「私」を懲らしめるために謎の男となって、「私」を罵り倒したのかもしれない。
霊ゆえに犬に吠えられる。
「私」の錯覚が生み出した「自責の念」というもう一人の自分。
酒に酔って、桃の葉や栗鼠の子を粗末にあつかって死なせてしまったという苦い思いが、この罵倒する男を生み出したのであろう。
「自責の念」が、「私」を問い詰めるところがユーモラスである。
自虐小説として読めば、枝から生え出た葉は、「私」の自尊心なのかもしれない。
か細い枝に宿った自尊心を、その貧弱さがたまらなくなって千切っては捨て千切っては捨て。
自虐する男と、自虐される桃の葉という「私」。
自虐される栗鼠の子という「私」。
最後にもうひとつ。
この宴会の場が、鰻屋なのではないかという推察も成り立つのではないだろうか。
ピアノの演奏会の帰りに、「四五人の客が落ち合って一緒にお膳をかこんだ」のが鰻屋だったのである。
過去と現在が混在している物語。
酒を飲んであばれたのは、この男であり、それを見ているのが「私」。
男と「私」も混在している。
一本の桃の一輪挿しに、過去の花と現在の蕾が、わずかな時間の差で混在していたように。
しかし、「急に気持ちがはっきりして、辺りを見極めようと」したとき、栗鼠の霊も、罵倒する幽体離脱男も、自虐する男も、混在する世界も、どこかへ消えてしまっていた。
それらは、男が去ったことで瓦解してしまった。
こうして拍子木の犬は、物語の読者になったのだ。
こんなお話を、短い文章でさらりと書きあげるのだから、内田百閒は面白い。
当ブログ管理人は、桃の葉や犬よりも、哀愁の「栗鼠の子」に惹かれた。
「葉蘭」の狐。
「雲の脚」の兎。
「梟林記」の蛇や鳥。
「短夜」の人に化ける狐。
「件」の半人半牛
「とほぼえ」の遠吠えの犬
それぞれのユニークな動物たちが、「物語の幻想性」の「影」的存在になっているような気がして面白いと感じている。
色文字部分:小説「桃葉」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成4 「サラサーテの盤」に収録の「桃葉」
「桃葉」は昭和13年に、「文学」5月号に発表された小説である。
犬と、栗鼠の子が出てきて、可愛らしい。
といっても、犬は声だけの出演で、栗鼠の子はボール函のなかでかさかさ動いた後、鰻屋のまな板の上で死んでしまう。
「四五人の客が落ち合って一緒にお膳をかこんだが、」という書き出しで「桃葉」は始まる。
知らない男の登場
表で犬が吠えて、人声が聞こえる。(小説「桃葉」が「宴会の場面」という一幕芝居なら、吠える犬は拍子木の役割をはたしている。犬の吠え声で、読者は物語に覚醒する。)
やがて、知らない男が入って来て、「私(主人公)」の隣に座った。
「私」は、この男に構わずに桃の枝の一輪挿しのことを誰に話すともなく語り始める。
すると、この男が話に割り込んできて、「私」の過去の行状を問い詰め始める。
弱っている栗鼠の子を閉じ込めたボール函をさげて、その栗鼠を気にもかけずに、夕方までピアノの演奏を聴いていたこと。
演奏会の帰りに、鰻屋へ寄って、酒を飲み過ぎてあばれたこと。
リスがまな板の上で死んだことを女中から聞かされて、またあばれたこと。
やっと家まで帰り着いて、桃の枝の一輪挿しの葉をちぎって部屋を散らかしたこと。
男は「インチキ野郎」と「私」に罵声を浴びせて、突き出した「真黒い拳」でお膳を割ってしまう。
その後、以下の文章で物語が閉じられている。
急に気持ちがはっきりして、辺りを見極めようとすると、その男はもう玄関の方へ出たらしく、表で変な物音がして、犬が吠えながら、どこかへ走って行った。「私」は、宴会に参加している人については、「はっきりしないなり」という程度の感覚しか持っていない。
そして、「気持ちがはっきり」してきた頃には、もう男は退出していた。
だから、男の正体は不明である。
不明であるということは、様々な想像が可能であるということ。
この小説を怪異小説として読めば、おそらくこの男は、栗鼠の子の化身なのだろう。
自分を虐げた「私」を懲らしめるために謎の男となって、「私」を罵り倒したのかもしれない。
霊ゆえに犬に吠えられる。
いろいろな読み方
諧謔小説として読めば、男は「私」と同一人物。「私」の錯覚が生み出した「自責の念」というもう一人の自分。
酒に酔って、桃の葉や栗鼠の子を粗末にあつかって死なせてしまったという苦い思いが、この罵倒する男を生み出したのであろう。
「自責の念」が、「私」を問い詰めるところがユーモラスである。
自虐小説として読めば、枝から生え出た葉は、「私」の自尊心なのかもしれない。
か細い枝に宿った自尊心を、その貧弱さがたまらなくなって千切っては捨て千切っては捨て。
自虐する男と、自虐される桃の葉という「私」。
自虐される栗鼠の子という「私」。
最後にもうひとつ。
この宴会の場が、鰻屋なのではないかという推察も成り立つのではないだろうか。
ピアノの演奏会の帰りに、「四五人の客が落ち合って一緒にお膳をかこんだ」のが鰻屋だったのである。
過去と現在が混在している物語。
酒を飲んであばれたのは、この男であり、それを見ているのが「私」。
男と「私」も混在している。
一本の桃の一輪挿しに、過去の花と現在の蕾が、わずかな時間の差で混在していたように。
しかし、「急に気持ちがはっきりして、辺りを見極めようと」したとき、栗鼠の霊も、罵倒する幽体離脱男も、自虐する男も、混在する世界も、どこかへ消えてしまっていた。
それらは、男が去ったことで瓦解してしまった。
表で変な物音がして、犬が吠えながら、どこかへ走って行った。「変な音」とは男が崩れ落ちた音であり、残った男の余韻を追いかけて「犬が吠えながら、どこかへ走って行った」のである。
こうして拍子木の犬は、物語の読者になったのだ。
こんなお話を、短い文章でさらりと書きあげるのだから、内田百閒は面白い。
当ブログ管理人は、桃の葉や犬よりも、哀愁の「栗鼠の子」に惹かれた。
登場する動物について
いままで当ブログ管理人が読んだ内田百閒の短篇小説には、動物の登場するものがいくつかある。「葉蘭」の狐。
「雲の脚」の兎。
「梟林記」の蛇や鳥。
「短夜」の人に化ける狐。
「件」の半人半牛
「とほぼえ」の遠吠えの犬
それぞれのユニークな動物たちが、「物語の幻想性」の「影」的存在になっているような気がして面白いと感じている。
色文字部分:小説「桃葉」からの抜粋
参考文献
ちくま文庫 内田百閒集成4 「サラサーテの盤」に収録の「桃葉」