雑談散歩

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文章を読み解く楽しさ

ブドウのイラスト


遠くに住んでいる親しい知人から「ブドウを送った」というメールが届いた。

そのメールを追うように、もう一通、「ブドウの種にご注意」という件名のメールが送られてきた。
注意点として、以下の文が添えられている。

種無しの種類なのに今年はどういうわけか種が入っているものもできてしまったそうです。食する時は種にご注意ください。丸くてツルツルしているので窒息にもご注意ください。
私はこの注意書きを読んで、「窒息するほどタネの大きいブドウなのか」と驚いた。

「丸くてツルツルしている」
大きなタネなら、誤って飲み込んでしまい窒息事故に至る可能性もないではない。

しばらくして、そんな巨大なブドウがあるなんて聞いたことがないと思い始めた。
もし仮に、そんなに大きなブドウ粒があれば、果実は噛んで食べ、大きなタネは口の中に入れないはずだと思った。

しかし北海道の小学生が、給食のデザートとして出されたプラムのタネを飲み込んで窒息死するという不幸な事故が過去に起きている。
プラム大のブドウならあるかもしれない。

そんなことを考えながら、もういちど「注意書き」をよく読んでみた。
すると、最初の読みでは気にならなかった「窒息にも」「にも」という助詞の存在が気になりだした。

「にも」は、複数であることを強調する助詞であると私は理解している。
この「にも」は、あきらかに他者の存在を匂わせている。

解りにくいが、「注意書き」には注意することがふたつあると書かれてあるのだ。

  • 品種は種なしブドウだが、種の入っている粒もあるので注意すること。
  • 種以外にも、「丸くてツルツルしている」ので飲み込むと喉に詰まって窒息の可能性があること。
「注意書き」の趣旨が、ようやく読み取れた。
実の中に隠れている種にも、つるりと喉に潜り込むかもしれない実にも注意してくださいということなのだ。

この解りにくさは、誤読を誘引しやすい文脈と、「主語の省略」という日本語独特の「習慣」に因るものである。
 
文章の前の部分で「種」の漢字が三個(種類の種も入れれば四個)続いているので、「丸くてツルツルしている」ものも種であるに違いないと、視覚的に錯覚しがちである。
網膜を何度も通る「種」の文字が、サブミリナル効果になっているのかも知れない。

なので主語を投入して、「(ブドウの実が)丸くてツルツルしているので窒息にもご注意ください」と書くのが正解であった。

「(このブドウは特に実が)丸くてツルツルしているので窒息にもご注意ください」とあれば、一目瞭然。
法的な責任を問われる販売者なら、このように念の入ったコピーを記載するのだろうが、親しい者同士なら阿吽の呼吸である。

主語を省略しても意思の疎通ができる(もしかしたらできない)のは、日本語の利点であるのか欠点であるのか。

日本語には、豊かな表現方法が多い一方で、省略や曖昧さが多く含まれていることも否めない。
誤解が生じやすい面もあるが、その「謎深さ?」が日本語の魅力でもあると私は思っている。

省略や曖昧さは、「てにはを」を注意深く読み進めて文章を読み解く楽しさにつながる。
このように日常の文章を読み解くことは、私にとって、和歌や俳諧や小説を読み解く楽しみと同等である。

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