雑談散歩

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内田百閒の短篇小説「白猫」を読んで

小説「白猫」。

内田百閒の小説「白猫」には、旅館という一見ありふれた建物を舞台に、日常と非日常の境界が崩れていく様子が描かれている。

不特定多数の人々が出入りする旅館は、逗留する者にとっては、日常と非日常が混在している空間であると言える。
 
物語の舞台となっている旅館は、前回読んだ「猫」と同様に、主人公である「私」が長期滞在している下宿屋でもある。
長い間空室だった隣室に「お連れ込み」のアベックが宿泊するという設定も「猫」と同じだ。

だが、「白猫」においては、その舞台装置がはるかに生々しく、具体性を帯びて読者の視界にせまってくる。
 
玄関の三和土、帳場、広い中庭、中庭を一廻りする廊下、二階への梯子段、薄暗い廊下の曲り角、立てつけの悪い押し入れ……。
小説の各所に配置された旅館の描写が、読むごとに頭の中で結びつき、読者はこの旅館の間取りを図面のように思い描くことになる。

ブログ管理人が小説「白猫」を読んで注目したのは白猫の存在では無い。
いろいろな怪が現れては消える、この間取りの、平面と立体が気になった。

この間取りの図面化は、読者に対して平穏をもたらさない。
むしろ、それは不安を輪郭づける作用を果たしている。

どの平面、どの立体にも、何か見てはならぬもの、触れてはならぬものが潜んでいる気配が、読むほどに濃くなるのだ。

旅館は、「電車の終点」から十分ほどの距離にあると描かれている。
その地理的な果ての感覚が、物語の終盤で「終点の町」として現れる。
アベックの片割れの男が旅館から離れるとき、舞台装置であった旅館はその役割を変える。

物語全体が、ひとつの閉じた空間から、ぽつりと残された「終点」という「点」へと収縮していく。
まるで旅館そのものが、悪夢の回廊に変幻するように。

「白猫」の核心は、夢と現の境界をめぐる不安にある。
「私」は、白猫の闖入と隣室のアベックの奇怪な存在によって、自室の日常の壁を徐々に失っていく。

夢現(ゆめうつつ)のなかで、隣室の押し入れの中に見た女の顔は、押し入れという密閉された空間が、現実と夢が混在する謎の小部屋であることを示している。

物語の最後に「間境(まざかい)の壁」に何かがぶつかる音で「私」は跳ね起きるが、それは単なる物音だったのだろうか。
日常と非日常を分かつはずの「間境の壁」が、その瞬間に間取りから取り払われてしまった物音なのではないだろうか。

この小説で百閒の描く「家(旅館)」は、外界からの侵入を防ぐ「家」ではない。
 むしろ、外の不安を内に迎え入れ、日常の平穏を剥ぎ取ってしまう「家」なのである。


 色文字部分:内田百閒の小説「白猫」からの引用
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