内田百閒の掌編小説「梅雨韻」小論
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子猫。 |
内田百閒は、小説「梅雨韻」で「梅雨」を、視野や思考を閉ざして不明瞭な「日常」を「幻出」させるものとして暗示している。
小説には、その不明瞭な「日常」に潜んでいる「私」の不安や恐怖が、聴覚や視覚や触覚を伴って目の前に幻出する様が描かれている。
梅雨に閉じ込められたなかで、主人公の感覚が捉える「日常」の変化が、やがて悪夢へと変貌していくのである。
気象現象を「非日常」の出現と関連付ける百閒の小説の方法は、今まで読んだ「ゆうべの雲」や「梟林記」などで筆者は経験済みである。
小説「梅雨韻」は、「座敷に坐って、何か考えていると」という書き出しで始まる。
主人公である「私」が、このときに何を考えていたのかは不明である。
不明瞭な思考のまま、「思われた」、「気がした」、「いるらしい」、「気配である」という感覚が働き、床下にいる三匹の子猫の存在を突き止める。
ぼんやりとした感覚が、聴覚や視覚を促して、子猫の実在へと導いているのだ。
この過程が、物語の後半では逆転する。
「私」の触覚が猫の不在に行きつき、そしてまた、その不在が巨大な猫の存在へと逆転するのである。
それは相対する「私」自身が、何か小さなものへ逆転することを示唆している。
「薄暗いところで、まん丸い眼を紫色に光らし、咽喉の奥かどこかで、ふわぁと云うのが、小さな声の癖に何となく物物しかった」
この仔猫たちの様子を生々しく語ることで、ぼんやりした存在である「私」は、ようやく具体性を獲得している。
だが、夢を見ているような主人公の、曖昧な印象は上塗りされ続ける。
この現と夢の二面を垣間見せながら、百閒は読者を恐怖劇へと誘導する。
床下の子猫は、魚の骨を与えようとする「私」に対して「前脚をあげて、立ち向かう様な」攻撃性を見せる。
「私」は、「ほうって置かれない様に思われ出した」ので、子猫を三匹ともつまみだして、「坂の下の空地」に捨ててしまう。
この生々しい行動の後に、「雨ばかり降り続いて」朝だか晩だかわからないという「私」の現実喪失感が描かれている。
「私」は、降り続く雨に閉じ込められて、現実の時間を見失いつつある。
そんな中、知らない人の訪問を受け、その人と「世間話をいつまでも」する。
その客は「段段お顔が大きくおなりの様ですね」と話しかける。
「私」が、「重ぼったくて困ります。病気の所為(せい)ばかりでもありますまい」と応じたとき、客の目がきらりと光る。
「日常」を装った訪問客が、「私」の知らない「非日常」から、「私」に目を光らせている、ということであろう。
「間もなくその客がいなくなって、雲がかぶさったなりに、雨も降り止んだ。家のまわりが白けた様に、よどんでいる」
客は、帰ったのではなく、「日常」からいなくなったのである。
怪しい訪問者が消えて、「家のまわりが白けた様に、よどんでいる」のは、百閒が何かを現出させようとしている予兆である。
かつて床下にいた子猫が、いつのまにか成長して帰って来たので、「私」は猫の横腹を蹴飛ばすという凶行に及ぶ。
まだそこらを這いまわっている猫の頸を捕まえて、また空地に捨てる。
その時、大きさは親猫ぐらいなのに非常に軽くて、手ごたえがない様であったと感じる。
視覚的には猫を認識していても、触感がおぼろである。
物語の前半で感じていた猫の実在が、だんだん不在のほうへ逆転し始めている。
実感を失うことで、不安感や恐怖感が生じ始めているのだ。
「どこかで芭蕉布の暖簾が、雨風にあおられてばたばたと触れているようだった。その間から、恐ろしく色の白い顔が、覗いたり隠れたりした」
「私」は、「芭蕉布の暖簾」や「恐ろしく色の白い顔」を目撃したわけではない。
雨風の音を聞いていたら、「恐ろしく色の白い顔」が思い浮かんだのである。
ここでは聴覚が、「私」の不安や恐怖を映像化している。
「頼みもしないのに、大工がやって来て、庭の板塀を直している。金槌でかんかん敲(たた)くので、八釜(やかま)しくて堪(たま)らない」
金槌の響きで庭木の枝から芋虫が落ちてきて、その芋虫の夫々が、勝手な方へ這い歩く。
大きい芋虫は空気枕ぐらいあって、目が付いていて、その目で「私」を見ながら動いている。
ここでも「私」の聴覚が、不安や恐怖や不快感を映像化している。
揺れ動く「私」の感覚が、何かが起こるかもしれないという読者の予感を募らせる。
「急に恐ろしい気配がするので」「私」が外に出ようとしたら、「牛ぐらいもある大きな猫」が目の前に起ちふさがり、その猫に「私」の胸を踏みつけられる。
猫は「縁の下の方に行こうとしている」という悪夢で小説は閉じられている。
「私」によって縁の下から追放された猫が、巨大な猫に変身して、「私」を押しのけて縁の下へ戻ろうとしている。
この「逆転」は、現実が悪夢に転じたのか、悪夢が現実に転じたのか。
その曖昧な状況から生じた主人公の聴覚や視覚や触覚が、梅雨の不安や恐怖を増大させている。
表題の「梅雨韻」とは、梅雨から醸し出されている「韻」のことであると、筆者は感じている。
その「韻」が「私」の感覚に響いて、不安と恐怖を共鳴させている。
「梅雨韻」に描かれている「逆転」は、感覚の外に押しやったものが、やがて「日常」の変貌をもたらすという過程であるのかも知れない。
「色文字」部分:内田百閒の「梅雨韻」からの引用