内田百閒の「鵯(ひよどり)」について
ヒヨドリ。 |
内田百閒の「鵯(ひよどり)」は、淡々とした随筆の後に、そのなごやかな気分を押し流すような物語を付加した小品である。
物語に描かれた家の床下に、悪戯な野良猫と怖い内田百閒が潜んでいるという非日常を読者に見せ。
その狂気の上で、子どもを抱いた妻が、足拍子をとって子どもをあやしているという平穏な日常を見せている。
「鵯」の前半には、百閒が「赤穂浪士」の行動を否定したことによって読者の反感を買ったことが描かれている。
「赤穂浪士」の「仇討ち」事件の「秩序の破壊と復讐が気に入らなかった様である」と、過去の言説を、他人事のように振り返る。
この瞬間に百閒は、随筆の語り手から、小説の主人公へと変幻する。
百閒の不注意で、留守中に、大切に育てていたヒヨドリが野良猫にかみ殺されるという事件が起こる。
寄席へ行って「面白い話を聞いて帰って」この惨劇の跡を目撃した百閒は、猫を追って床下に潜り込みたい衝動に駆られる。
夜通しその衝動は収まらず、朝になって猫への復讐を決意する。
物干竿の先に出刃包丁を縄で括り付け、自作の槍を手にして、縁の下に潜り込む。
もはや百閒は赤穂浪士よろしく、槍を手に取って、ヒヨドリの仇討ちのため、縁の下に逃げ込んだ野良猫を刺し殺そうと、その出現を待ち構えているのだ。
随筆という穏やかな形式が、突如として、狂気を孕んだ小説へと転じる、読む者に鮮烈な印象を与える一場面である。
その感情の動きや動作、床下の情景は、生々しく滑稽な一幕芝居のようである。
演出された激情と、それを演ずる知性が共存する劇場空間であるとも言える。
赤穂浪士の復讐を否定しながら、自らは復讐を実行する男を演ずる。
この自己演出のセンスこそ、百閒らしい諧謔なのではとブログ管理人は感じている。
寄席の話を楽しむという日常。
飼っていた小鳥が、侵入者によってかみ殺されるという非日常。
床下の狂気と床上の平穏。
「鵯」は、日常と非日常、理性と感情、随筆と小説、それらの境界をすべて曖昧にし、不穏なものにしていく。
この不穏な空気に対する不安や恐怖が、内田百閒の創作の根源であるのかもしれない。
色文字部分:内田百閒の「鵯」からの引用