雑談散歩

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内田百閒の掌編「菊の雨」

美しい菊の花の写真

観菊会

 内田百閒の掌編「菊の雨」は昭和14年(1939年)10月に俳誌「東炎」に発表されている。

観菊の御会に召されて行くと鬱蒼(うっそう)たる御苑の森が展(ひら)けて、金風の吹き渡る玉砂利の広場に出た。
掌編は、美しい文章で始まる。

「金風(きんぷう)」とは、秋の風の意で、新宿御苑を意識した形容と思われる。

新宿御苑は明治39年に皇室庭園となり、秋には皇室主催の観菊会が催されていた。
戦後の昭和24年に国民公園となるまでは、限られた文化人や要人のみが招かれる場であった。

内田百閒は、昭和8年に随筆集「百鬼園随筆」を刊行し、ベストセラー作家の仲間入りを果たしている。
作家として一躍名を馳せた百閒は、「観菊の御会」に文化人として招待されたのかもしれない。

掌編の構成

掌編を三つの部分に分けて読んだ。
それは、「御苑」と「自宅」と「大雨」である。

「御苑」

御苑を訪れた「私」は、白菊や黄菊の、見事に鮮やかな色彩に驚くばかりだった。
懸崖の小花、大咲、乱咲、咲分けなど、次々と現れる菊の咲き様や色の変化に、賞歎する暇もないほどだった。

「自宅」

そんな光景を脳裏に焼き付けて自宅に帰る。
すると「目の前に妙な物が見えだした」
熱心に観賞したせいか、菊の残像が、色の帯となって目の前に現れる。
順路に沿って、左から右へ回遊したのに、菊の色の残像が右から左へと流れていく。
現実の経験が裏返されるかのような錯覚に悩まされるのだった。

「大雨」

夕方に大雨が降った。
自宅の廂(ひさし)を叩く雨音を聞いていると、激しく雨に打たれている御苑の菊花壇の様子が目先に浮かんでくる。
菊花は闇をはね返して燦爛(さんらん)と輝いているはずである。
一方自宅では、暗い雨のしぶきの裾が不思議な色に染まってほのぼのと明るくなる。


「御苑」、「自宅」、「大雨」と「私」の視線が進むにつれて、現実と幻想が交錯している。
御苑ではあんなに鮮明に見えた菊花が、自宅ではそれぞれの花の形や色彩を思い出すことができない。
大雨の下、御苑で観た菊花の残像が、眼前では色の名も解らぬ光の帯となって、雨のしぶきをひっそりと明るく染めている。

光りの帯

この変化は、華やかな御苑での経験が、日常という現実のフィルターを通して「儚い幻想」のように感じられることを示唆していると思える。

その儚さはどこから来るのだろうか。

昭和14年5月に満蒙国境でノモンハン事件が起こり、9月にはヨーロッパで第二次世界大戦が勃発した。
世界はすでに緊張を孕み、日本の戦時体制は濃くなりつつあった。

その一か月後に「菊の雨」が発表されている。

儚い輝きに見えた菊花の幻想は、不吉な大雨に、今にも消え入りそうである。
百閒の目に映った光の帯は、文化の平安が失われゆく前夜の、最後の輝きであったのかもしれない。

2年後の昭和16年12月8日には、日本軍による「太平洋戦争」が開始された。

まとめ

この緊迫した時代背景を考えると、掌編に描かれた「御苑」での華やかな光景は、作者の目に映ったつかの間の平和だったのであろう。
しかし、その平和な光景は「自宅」での不穏な残像へと変質した。
その後、不吉な「大雨」によって打ち消されそうになる。

この幻想的な光景の変質は、単なる視覚の錯覚に留まらない。
それは、これから失われていくであろう「文化の平安」や「穏やかな日常」への予感を象徴している。

百閒は、そう感じとったのではあるまいか。
御苑の菊花の鮮やかな輝きが、次第に形を失い、色の名も解らぬ光の帯へと変わっていく描写。
それは、予感していた戦争の影が、平和な日常を徐々に侵食していく様を、鋭敏な感性で描いた時代の暗喩だったのかもしれない。

「色文字」部分は内田百閒「菊の雨」からの引用
参考文献:ウィキペディア「新宿御苑」参照
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