雑談散歩

    山スキーやハイキング、読書や江戸俳諧、山野草や散歩、その他雑多なことなど。

藤沢周平の短篇小説「嚏」のどんでん返し

藤沢周平「嚏」 新潮文庫


この小説には、武士としての運命の物悲しさが色濃く描かれている。

主人公の布施甚五郎(ふせ じんごろう)には、心身が緊張した時に、発作的に激しい嚏(くしゃみ)が出るという奇癖がある。
この奇癖のために、甚五郎は大事な場面で失態を演じたり、物事を不首尾に終わらせることが多かった。

将来の妻になる娘とお見合いをしたとき、緊張のあまりクシャミが出そうになったことがあった。
クシャミを堪えている甚五郎の顔に、自分が愚弄されていると思い、気の強いその娘は甚五郎を叱咤した。
ところが、叱られたら甚五郎のクシャミは引っ込んだ。
このとき、叱られるのがクシャミの良薬であると彼は悟ったのだった。

この「叱られるのがクシャミの良薬」が、物語のヤマ場での伏線となっている。

甚五郎は、藩の家老から上意討ちを命じられる。
相手は、藩主の異母弟の綾部である。
支藩を任されている綾部は、酒色に溺れ、領内の農民を割増しした年貢米で苦しめているとの評判であった。
いかにも悪の典型であったのだ。

綾部の悪は、藩の命を縮めかねないので討つのだと家老は甚五郎に説明した。

さて、上意討ちの場面で綾部と向き合った甚五郎は、集中力も腕力も奪ってしまう激しいクシャミにおそわれそうになり、「斬られるかも知れぬ」と思った。

すると、クシャミをこらえている甚五郎の耳に綾部の鋭い叱咤(しった)が響いた。
この叱咤のおかげで、甚五郎はクシャミから解放されて、上意討ちを成し遂げることが出来た。
これが話のオチである。
「叱られるのがクシャミの良薬」が効いたのだ。


ところがこの物語には、討たれるべき綾部が実は善政を施していたという、藤井源助の証言による「どんでん返し」が用意されている。
善と悪の逆転は、読者にとって衝撃であると同時に、どこか唐突でもある。

上意討ちの待機をしていた甚五郎の前に、友でもあり剣のライバルでもある藤井源助が現れる。
藤井は、甚五郎には隠していたが、綾部の護衛役を務めていた。

藤井の言葉によると、綾部の善政で支藩が本藩の支配から離れることを恐れた重臣たちが奸計を巡らし、綾部の悪評を広めていたのだという。

剣技の優れた甚五郎は刺客として家老に操られていたらしい。
しかし甚五郎は藩士である。
上意討ちの藩命を前にして、何が善で何が悪であるのかという政治的な判断は出来ない。
武士は、真実を知らぬまま、命じられるままに刃を振るう存在だという構造を、作者は強調している。

甚五郎は、藤井と何度も木剣の試合をしていたので、その試合慣れが緊張をほぐした。
藤井との斬り合いでクシャミに襲われるようなことはなかった。
傷つきながらも藤井を斬り、「立派な人だ」と思いながらも、綾部の胸を剣で刺し貫いてしまう。

理不尽な思いはあっても、藩士は藩命には逆らえない。
この「どんでん返し」劇を通して藤沢周平は、藤井と甚五郎の武士としての運命の物悲しさを描いたのだ。

理不尽な藩命に翻弄されながらも、武士としての道を歩まざるを得なかった甚五郎と藤井の姿は、善と悪、そして個人の運命と組織の論理の間で揺れ動く人間の悲劇を表している。

権力者の横暴は、いつの時代も、下級のものを不幸にする。
真摯に仕事に打ち込む者ほど、不幸の度合いは大きい。

悪政を布く綾部を討ち取る物語であると読み進めていた読者は、この意外な「どんでん返し」に驚くことだろう。

実は悪が善で善が悪だったという「どんでん返し」の成り行きは、ただ藤井の口から語られるだけで、物語として唐突な印象は拭い得ない。
最後に、それがこの物語の後味の悪さとして、頭に残った。

Next Post Previous Post

スポンサー