藤沢周平「歳月」の詩情
江戸深川絵図。 |
いままで読んだ「霜の朝(新潮文庫)」所収の短篇小説のなかで、「歳月」がいちばん気に入っている。
「歳月」には血なまぐさい事件が登場しない。
江戸深川の美しい景色を背景に、力強く生きる女性の姿が描かれている。
繰り返し読むたびに、その女性が実在の人のように脳裏を過る。
小説には多くの町名や地名が出てくるが、不思議に、懐かしい思いを抱かせるものばかりだ。
八名川町、蛤町、佐賀町、下佐賀町、
大川、小名木川、永代橋、霊岸島、
などなど。
実際に私がその場所にいて、町の風景を眺め、登場人物たちの話を聞いているような気分になってくる。
紙の上の文字を目で追うことが、そういう気分を呼び込むのだから、小説は面白く不思議なものだ。
藤沢周平の小説は、ことさらにその傾向が強いと感じている。
いままで読んだ氏の小説では、登場人物が粗末に扱われていないことが多い。
例外はあるものの、端役の人物にも名が与えられ、その人の暮らしが思い浮かぶほどに実在感を漂わせて描かれている。
そういう作者の視線は、主人公の視線に反映されている。
おつえの目配りは、周囲のものを活かそうという方向に向けられている。
実家の商売の義理のために、好きな男に嫁ぐことをあきらめたおつえだが、政略的な婚姻でも嫁ぎ先のために身を尽くす。
嫁ぎ先であり、おつえがおかみを務める大店の材木問屋上総屋は、先代が亡くなった後、零落の一途を辿った。
かつて、妾を囲い、吉原で豪遊していた夫は、手酌で酒浸りの日々である。
情愛の湧かなかった夫だが、今はそんな夫を哀れに思い、情けをかけようとしている。
そして、材木問屋を畳んだあとは、小さな商いを営んで、気弱になっている夫や寝込んでいる姑を養っていこうとしている。
おつえの妹であるさちの夫は、かつておつえが心を寄せた男である。
おつえは、一緒になれなかった後悔の気持ちを、すでに振り払っている。
今は、妹夫婦の倹しい暮らしぶりをやさしく見守るばかりである。
訪れる夕暮れには寂漠とした侘しさが漂っている。
だが希望の灯がないわけではない。
小名木川に架かる高橋にのぼると、四方に平べったく広がっている町が見えた。西空にかすかに朱のいろが残っているだけで、町も大川の水も青黒く暮れいろに包まれようとしていた。家々の窓に、ぽつりぽつり灯がともりはじめている。四月半ばの一日は、暮れてもまだあたたかった。(藤沢周平「歳月」より引用)
おつえのかつての儚いあこがれや、今の健気で律儀な生き方が、江戸深川の風景と重なって、小説を読む私の目の前に、しっとりとした詩情を広げている。