雑談散歩

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青森市の片隅でアコースティックライブを聴きに

アコースティックライブ
アコースティックライブ 

かつて大都会で暮らしていたことがあった。
その頃、ひっそりと存在していた「アングラ」という、独特の雰囲気をもった場所に魅力を感じていた。
それは地下にある黴臭いジャズ喫茶だったり、同世代の若者たちが運営する芝居小屋だったり。

アルバイトが休みの日は、ベースの音が響くソファに身を沈めて、昼間からビールを飲んだ。
そういう場所には決まって置いてあった月刊「ガロ」を愛読した。

夜になると、地下鉄に乗って、繁華街へ向かった。
きらびやかなネオンサインが、だんだんと途切れて、闇が濃くなったアパート街の一角に、寂れた芝居小屋があった。
その小屋で「アングラ演劇」を楽しんだ。

自己の存在意義が薄れ、閉塞模様の生活感が漂う身の上。
エネルギッシュな芝居で、束の間のカタルシスを得ていたのだった。

インテリゲンチャには遠く及ばず、大衆にも馴染めず、定職にも就けず。

そんな若者が、芝居がはねたあと、安い居酒屋に群れた。
宮本常一に倣って、我々は都会の「忘れられた日本人」だと、訳のわからない気炎をあげた。
サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら」に感激したふりをした。
実際、我々は訪れるはずもない何かを待っていた。

やがて「置き去りにされた日本人」は、ひとりふたりと社会人の後尾に加わり、照れ笑いをしながら去って行った。

自分も含めて、連中が引きずっていた影が、消えかかって半世紀が過ぎようとしている。
その影が、老齢になった今も懐かしい。

懐かしい気分に駆られて、青森市の片隅で開かれたアコースティックライブを初めて聴きに行った。
雑多で古びた店内は、どこか「アングラ」を彷彿させる。

集まった観客は、平穏と郷愁をともに抱きながら、昭和の時代を懐かしむ穏やかな人々に見えた。
松山千春やかぐや姫、井上陽水のコピーに聞きほれている。
日本全国の地方都市で開催されているような、センチメンタルなライブだった。

昭和のフォークの雰囲気はあふれていたが、あの時代の陰影はどこにも見当たらない。
それも、今となっては当然のこと。
この場所は、「懐古の安全地帯」なのだ。

ライブが終わって、人々はざわめきとともに立ち上がり、出口に向かう。
私は、その群れに、かつての友人たちの面影を見出そうとしていた。
人々は、ギシギシと音鳴りのする板の階段を降りていく。
その音に、遠い昔のつぶやきを聞いたような気がした。

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