2015/09/26

日本語の省略について考えていると、「日常」が見えてきたような・・・・・

昨日の記事で、谷村新司氏作詞の曲「遠くで汽笛を聞きながら」について書いた。
歌詞の省略のレトリックが、この歌に情感を持たせているというような意味のことを書いたのだった。

このように、私たちが使っている言葉には省略が多い。
外国語を知らないので、他の国の言葉と比較できないという認識不足は否めないが・・・。
私は、日本語には省略が多いと思っている。

特に主語の省略は日常茶飯事。
このブログの文章でも、「私は」という主語を省いて書いていることが「常態」となっている。

日常の会話においても、主語を省略して話す慣習があるのは周知の通り。

「私は・・・・」を連発すると、私の周辺のつきあいでは「ちょっとくどい人」と思われがちである。
頻繁に主語が省略されていても、動詞から主語を推測できるので、会話に支障をきたすことは少ない。

ここで、ちょっとしたエピソードをひとつ。
私が昔、同郷の知り合いと上京したときのことである。
居酒屋のカウンターで飲みながら、津軽弁と標準語を織り交ぜて話していたら、隣席のやや年配のご婦人が話しかけてきた。

「日本は長いんですか?」

この問いかけに私はこう思った。
自分の住んでいる東京以外に関心がなくて地理にも不案内だと思われるこのご婦人は、私たちが本州の北の端である遠い青森からやって来たと知って、ずいぶん驚いた。
その驚きが疑問形となって、「青森はずいぶん遠そうな場所らしいけれど、日本ってそんなに長い国なのですか」という意味合いの発言になった。

「日本列島は細長い弓なりの地形だから、南北に長いし東西にも長いのですよ・・・・」と言いそうになったが、あることに気づいた。
このご婦人は、私たちを外国人だと勘違いしているのではあるまいか?

特に私は、顔つきが東南アジア系だとよく言われる。
その顔つきの男が、訳のわからない外国語のような言葉(津軽弁)をしゃべっているのだから、勘違いするのも無理は無い。

そして、たまに日本語(標準語)を話すものだから「この人たちは日本で何年ぐらい暮らしているんでしょう」という疑問が湧いても不思議ではない。

「あなたは日本での滞在期間が長いのですか?」と聞きたいところ、遠慮心から省略したのか、「日本は長いんですか?」という婉曲な問いかけになったのだろう。

「ええ、57年になります。生まれてからずっと日本に住んでいて、今年57歳だから、57年です。」
というようなことを言ったら、ご婦人は大笑いした。

省略系日本語のあとは、自身の勘違いを笑ってごまかす系。
このふたつには、何かつながりがあるのか無いのか。

それはともかく。
省略された言葉を聞くと、そこには何が隠れているのだろうと思うことがある。
たしかに、主語や目的語を省略した方が、言葉が軽快になり、リズミカルになって、しゃべっていて心地良い。
調子の良さは、何かを欠く。

欠けているものと隠されているもの。
無意識と意識。
それらは、「日常」に見え隠れする。

主語や目的語を省略し、動詞を省略する。
そうすることで、「日常」の私が消え、「日常」の行動が消え、「日常」そのものが消えかかる。
もっとも生活に密着している「日常」を省略することで、私たちは「婉曲」に生きていこうとしているのかもしれない。

なにやら、言葉について考えていると「日常」が見えてくるような気がするのだが・・・・錯覚だろうか。

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