2016/06/22

野辺地町にある芭蕉の句碑「花盛り山は日ごろの朝ぼらけ」

野辺地町に芭蕉の句の石碑があると、人から聞いた。
野辺地町の桜の名所である「愛宕(あたご)公園」というところに、その句碑があるのだという。

芭蕉の「おくのほそ道」の旅の北限の地は平泉である。
野辺地までは足を延ばしていない。
「おくのほそ道」の通り道でもないのに、どうして野辺地町に芭蕉の句碑があるのだろう。
そう思って調べてみた。

この句碑は、文政12年(1829年)に、俳聖芭蕉を慕う野辺地の俳諧師たちによって建てられたものであるという。
松尾芭蕉は元禄7年(1694年)10月に、大坂(現大阪)で亡くなっている。
その135年後に、野辺地の地に芭蕉の句碑が建てられたことになる。
石碑の裏面には「東奥野辺地社中」と彫られている。
江戸時代の野辺地に、すでに熱心な芭蕉ファンがいらっしゃったのだ。
野辺地は、古くから交通や商業の重要な地として栄えた所であるらしい。
生活に余裕のある商人達が、商いの品と一緒に情報を集め、風雅の世界に興じていたのだろう。

その石碑の表には、以下の句が刻まれてある。

花盛り山は日ごろの朝ぼらけ

この句は、芭蕉が貞享5年(1688年)に桜の名所吉野山で詠んだものとされている。
芭蕉は貞享5年3月(陰暦)頃、「笈の小文」の旅で吉野を訪れた。
ところが掲句は、芭蕉が著した俳諧紀行「笈の小文」にはおさめられていない。
作ってはみたものの、あまり気に入らなかったのだろうか。
私がこの句に接したとき、芭蕉の他の句とくらべて、ちょっとぼんやりした感じだなぁという印象を持ったのだったが・・・・。

掲句は、江戸時代前期の俳諧師である「中村史邦(なかむらふみくに)」という方が、芭蕉の没後に編んだ「芭蕉庵小文庫(ばしょうあんこぶんこ)」におさめられているという。
「芭蕉庵小文庫」は、元禄9年(1696年)3月の発刊。
江戸の俳諧の動向を絶えず注視していたであろう野辺地の俳諧師たちにとって、俳諧関係の出版物は熱望の的だったに違いない。
愛宕山に句碑を建立するにあたって、「東奥野辺地社中」の方々が、芭蕉句の出版物を前に、石碑に刻む句の選択に白熱した会議を幾日も開いていたであろう様子が想像される。

それとも、句碑の建立場所が愛宕山に決定した段階で、彫刻する句は「花盛り山は日ごろの朝ぼらけ」と決まっていたのかもしれない。
歌人西行が愛した吉野山の桜。
西行を慕っていた芭蕉もまた、吉野山へは幾度も訪れている。
前述の通り、掲句は桜の花盛りの吉野山で詠まれたもの。

「東奥野辺地社中」の方々は、野辺地の愛宕山を奈良の吉野山に模したのではなかろうか。
現在の愛宕公園には樹齢300年と推定されている「エドヒガン」という桜の野生種が立っている。
愛宕山が、野辺地町を一望できる桜の景勝地「愛宕公園」として整備されたのは、明治17年の頃とされている。
だが、それ以前から愛宕山は、江戸時代の野辺地の人々にとって「エドヒガン」の花見の場所であったことだろう。

「東奥野辺地社中」の方々も、愛宕山で優雅な花見の句会を開いていただろうことは容易に想像できる。
愛宕山で桜を眺めながら芭蕉を偲んで、遠い奈良の吉野山の桜に思いを馳せていたのかもしれない。
当時、交通や商業活動の要衝だったとはいえ、野辺地は、江戸からみれば北の奥の辺境である。
辺境に暮らす俳諧師たちは、芭蕉の句碑を、野辺地と江戸をつなぐモニュメントとしたに違いない。

この句には北方の辺境に暮らす俳諧師達の思いが反映されているように思う。
それが、この句を石碑に刻んだ理由ではないかと私は思っている。
「花盛り山は日ごろの朝ぼらけ」。

多くの蕉風俳諧師達が活躍している江戸は、俳諧の花盛りだろうが、ここ野辺地は、いつもと変わらぬ朝夕の繰り返しであるなあという感慨。
野辺地の俳諧師たちの「憧憬」にも似た感慨をこの句に寄せた。

考えすぎだろうか。


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