2016/12/11

凡兆の技?「まねきまねきあふごの先の薄かな」

凡兆の句は、どうしてこんなにかっこいいのだろう。
私は、凡兆の句のかっこよさに魅かれて、凡兆の俳諧を読んでいる。
だが、そのかっこよさの理由を解明するだけの能力は、私には無い。
ただかっこいいと感じながら、句を読み進めているのだ。

まねきまねきあふごの先の薄(すすき)かな
野沢凡兆

「猿蓑集 巻之三 秋」に収められている凡兆の句。
句の前書きに『八瀬おはらに遊吟して、「柴うり」の文書ける序手に』とある。
『「柴うり」の文』とは、凡兆の唯一の俳文「柴売ノ説」のこと。
「柴売ノ説」については、「骨柴のかられながらも木の芽かな」の記事に、ほんのちょっと書いた。
八瀬や大原から京の市中へ柴を売りにくる女達の風俗・行動を、凡兆が書いたものである。

「あふご」とは、天秤棒のこと。
和歌では、「会ふ期(あふご)」に掛けて用いられるという。
「会ふ期」とは、会う時という意味。

句の前書きから察すれば、「大原女(おおはらめ)」が天秤棒に「骨柴」を下げて売り歩く様を句にしたのであろうか。
しかし「大原女」は、京都市中を薪を頭に載せて売り歩くことで有名である。
ごくたまに、天秤棒を担ぐこともあったのかもしれない。
これはあくまでも私の憶測。
柴を頭に載せて売り歩くのが京の風物詩となっていたのだから、天秤棒は使わなかったことだろう。
定番のセールススタイルがセールスポイントなのだから。
特有の衣装をまとった「大原女」に天秤棒はやぼ。
やぼは、その日の売り上げに差し障る。
やはり、「あふご」は「会ふ期」に掛けたと思われる。

「大原女」が京の都に続くススキ野を歩いていると、天秤棒の先にあたるススキの穂が風に揺れて、まるで「大原女」を招いているようであるというのは仮のイメージか。
好きな人に会いにススキの野原を歩いていると、その人と会う時刻へとススキの穂が揺れて招いているようであるという艶っぽいイメージが、仮イメージの裏に隠されているという仕掛けか。

凡兆は、叙景詩人。
だが掲句には、感情がこもっているような「まねきまねき」という語句が見える。
感情を含めて、艶っぽい句に仕上げているのか。
こういう技もできるぜ、という凡兆のアピールなのか。

どちらにせよ、リズミカルな句である。
それは「まねき」の「き」、「先」の「き」、「薄」の「き」と「き」音が脚韻を踏んでいるからだろう。
18文字(1字字余り)のなかに4文字の「き」が繰り返し使われている。
これが、句の持っているイメージと一体となって読者の視線を先へ先へと進めている。
ススキの原を進むたびに、天秤棒の先とススキの穂のふれあいが繰り返される。
その動作が、「き」音の繰り返しのリズムで刻まれている。
さらに、「あふごの先の」と、助詞の「の」を繰り返すことでリズムにスピード感が生まれる。

ひょっとしたら、凡兆の句は「流線型」なのかもしれない。
だから、かっこいいのか?
凡兆って、芭蕉よりもカッコマン?
おっと、これは調子に乗り過ぎ。

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