2017/03/24

凡兆の思い「京はみな山の中也時鳥」

登芳久氏著の「野沢凡兆の生涯(芭蕉七部集を中心として)」に、凡兆の謎のような句が載っている。

京はみな山の中也(なり)時鳥(ほととぎす)
野沢凡兆

巷間では、ほとんど話題にのぼらない句である。
その理由は、あまりにも唐突で、解釈に困る句だからではないかと私は思っている。
登芳久氏もこの句については、なんの言及もされていない。
「野沢凡兆の発句」という項目に、「あかさたな」順に、資料として羅列されている句のひとつに過ぎない。

句の羅列のなかから掲句を見つけた時、私はこの句にあまり心を惹かれなかった。
ホトトギスが鳴くようになると、京都の人はみな、まるで山の中にでもいるように静かに、その鳴き声に聞き入ってしまう。
そんなイメージを作り出して、なんとなく納得していた。
当時の京都の住人は、みな粋人ばかりだったのだろう。

ところが、その後芭蕉のある句に出あって、急に興味が湧いた。
掲句には、その句を連想させるものがあったのである。

「京にても京なつかしやほととぎす」という芭蕉の句がそれである。
こうして京都にいても、ホトトギスの鳴き声が聞こえてくると、京都の雅な世界をいろいろと想い起してしまう。
それが京都にたいする芭蕉の感慨となっている。
もしかしたら、敬愛する西行のことを想っていたのかもしれない。
京都に縁のある宗祇や雪舟や利休のことが、頭にあったのかもしれない。

現在滞在している京都と、芭蕉が恋焦がれている風情あふれる京都。
京都での旅の生活を実感しつつ、同時に、生活臭の無い風雅な京都を思い浮かべている芭蕉。
私はこの句に、そんなイメージを感じている。

「京にても・・・」の句は、元禄3年6月20日の作と「芭蕉年譜大成」にある。
元禄3年と言えば、「猿蓑」に取り掛かる前年。
「野沢凡兆の生涯(芭蕉七部集を中心として)」によれば、凡兆が芭蕉との面談の機を得たのは元禄元年ごろとされている。
それが元禄4年の「猿蓑」発刊後、凡兆と芭蕉は急速に疎遠となっている。

凡兆の「京はみな・・・」の句が、いつごろの作かは不明である。
掲句が「猿蓑」以後の句だとすれば、凡兆は芭蕉の「京にても・・・」の句を踏まえて掲句を作ったのではないかと私は空想している。

漂泊の旅人として京都に立ち寄った芭蕉。
一方、凡兆は京都という都会に居を構え、医者と言う稼業で生計をたてている生活者。
「市中は物のにほひや夏の月」と都市住民の生活臭を詠った詩人である。
凡兆は、ホトトギスの鳴き声に現出する「京」とは、生活感の無い芭蕉の幻想の京都ではないかと思ったのかもしれない。

もし、ホトトギスの鳴き声によって現出する「京」があるとすれば、そんな「京」はすべて山の中にあるんじゃないの。
そう凡兆は思ったのかもしれない。
現実の京都は、人々の暮らしの息遣いであふれている都市なんだ。
花鳥風月的なホトトギスの鳴き声は、生活の背後にある。
言うなれば、BGMさ。

そういう凡兆の思いが込められているような句であると、私はこのごろ感じ始めている。
物の存在感を描き出すことで何かを表そうとした凡兆にとって、「京にても・・・」の句は、都会の現実から遠く離れた山の中の幻想のように見えたのではなかろうか。
こういう私の感想は、飛躍の度が過ぎるかもしれないが、私の中ではこのふたつの句が微妙に呼応しているように思えるのだ。

ところで、私は以前「ほととぎす何もなき野の門ン構」という凡兆の句を記事にしたことがあった。
その記事のなかで、「ほととぎす・・・」の句と芭蕉との「からみ」について書いたのだった。
今回の記事の「時鳥(ほととぎす)」についても、それが芭蕉の「ほととぎす」の句とからんでいるような印象を持った。
凡兆の、このふたつの「ほととぎす」の句には、そう思わせる何かがあるような気がするのだ。

京はみな山の中也時鳥

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