凡兆の高みの見物「枝に居てなくや柞のほととぎす」
「柞(ははそ)」をインターネットで調べると、コナラやミズナラやクヌギの総称であると記されている。
また、マンサク科のイスノキの別名であるとも言われている。
古典的な和歌の世界では、「柞(ははそ)」の「は」の2音が同じことから、母(はは)の意にかけて用いられることがあるという。
枝に居てなくや柞(ははそ)のほととぎす
野沢凡兆
また、マンサク科のイスノキの別名であるとも言われている。
古典的な和歌の世界では、「柞(ははそ)」の「は」の2音が同じことから、母(はは)の意にかけて用いられることがあるという。
枝に居てなくや柞(ははそ)のほととぎす
野沢凡兆
ホトトギスはカッコウ同様、托卵することが知られている鳥。
托卵とは、自分で巣を作らずに、他の鳥の巣に卵を産みつけて、その鳥に我が子を育ててもらう習性。
ホトトギスは、おもにウグイスやミソサザイの巣に自分の卵を産みつけるとされている。
掲句の「柞のほととぎす」とは托卵した母親のほととぎすというイメージなのかもしれない。
「枝に居て」の枝とは「柞」の枝なのだろう。
ウグイスかミソサザイの巣の近くで、その巣にある卵の母親であるホトトギスが鳴いているというイメージが思い浮かぶが、なんとなく判然としない。
凡兆特有の鮮明なイメージが感じられないのだ。
たしかに、「柞」の枝にとまって、赤い口を開けて鳴いているホトトギスの図は思い浮かぶのだが。
たとえば「鷲の巣の楠の枯枝に日は入りぬ」ほど鮮明ではない。
あえてこの句と比べれば、掲句はぼんやりとした印象である。
凡兆の句には、印象が鮮やかな句と、印象がぼんやりとしてイメージが見えにくいものがある。
これは、いままで凡兆の句を読んできた私の感想である。
印象が鮮やかではない句として、私は前回「京はみな山の中也時鳥」の記事を書いた。
謎のような句であるとも書いた。
おもしろいことに、前回同様印象が鮮やかでない掲句にも「ほととぎす」が登場する。
凡兆にとって「ほととぎす」とは、いかなるキーワードであったのだろう。
それは、さておき。
「枝に居て・・」の句を何度も読んでいるうちに、私はあることに考えが及んだ。
それは、俳諧における作者と読者の関係についてである。
俳諧師が俳諧を作り、読者がそれを読む。
このとき、俳諧師と読者の間に介在しているのは「五七五」の十七文字だけである。
もっとその句を読みこもうとする人は、その句の背景として添付された「前書・前文」も読んだりするが、読者がイメージを受け取るのは十七文字のみである。
そして、どんなイメージを受け取るかはその読者に託されている。
暗号のような十七文字を手掛かりにしてイメージを広げる読者。
自身が産み落とした句を、俳諧師は読者に託す。
自身の巣のなかで句を温めて育て、それを世に知らしめるというようなことをあまりやらない。
句の独り歩きを、高みの見物。
とすれば掲句は、俳諧とは「ほととぎす」の托卵のようなもだという凡兆の謎かけのようにも感じられる。
「枝に居て」は、自身が産んだ卵(句)を傍観している凡兆の姿なのか。
あるいは、「柞」の「はは」と「ほととぎす」の「とと」を、母と父の意にかけた単なる駄洒落句なのか。
「枝に居て」不在の母と父を恋いしと鳴いている。
そんな「ほととぎす」の姿を思い浮かべることも可能である。
いずれにしても、読者が句を読んでどんなイメージを思い浮かべようが、それは読者の自由と言える。
詩人の松下育男氏も、清水哲男氏主宰の「増殖する俳句歳時記」というサイトで、「誰の句だって、読みたいように読んでしまってよいわけです。」と言っておられる。
たしかに、「柞」の枝にとまって、赤い口を開けて鳴いているホトトギスの図は思い浮かぶのだが。
たとえば「鷲の巣の楠の枯枝に日は入りぬ」ほど鮮明ではない。
あえてこの句と比べれば、掲句はぼんやりとした印象である。
凡兆の句には、印象が鮮やかな句と、印象がぼんやりとしてイメージが見えにくいものがある。
これは、いままで凡兆の句を読んできた私の感想である。
印象が鮮やかではない句として、私は前回「京はみな山の中也時鳥」の記事を書いた。
謎のような句であるとも書いた。
おもしろいことに、前回同様印象が鮮やかでない掲句にも「ほととぎす」が登場する。
凡兆にとって「ほととぎす」とは、いかなるキーワードであったのだろう。
それは、さておき。
「枝に居て・・」の句を何度も読んでいるうちに、私はあることに考えが及んだ。
それは、俳諧における作者と読者の関係についてである。
俳諧師が俳諧を作り、読者がそれを読む。
このとき、俳諧師と読者の間に介在しているのは「五七五」の十七文字だけである。
もっとその句を読みこもうとする人は、その句の背景として添付された「前書・前文」も読んだりするが、読者がイメージを受け取るのは十七文字のみである。
そして、どんなイメージを受け取るかはその読者に託されている。
暗号のような十七文字を手掛かりにしてイメージを広げる読者。
自身が産み落とした句を、俳諧師は読者に託す。
自身の巣のなかで句を温めて育て、それを世に知らしめるというようなことをあまりやらない。
句の独り歩きを、高みの見物。
とすれば掲句は、俳諧とは「ほととぎす」の托卵のようなもだという凡兆の謎かけのようにも感じられる。
「枝に居て」は、自身が産んだ卵(句)を傍観している凡兆の姿なのか。
あるいは、「柞」の「はは」と「ほととぎす」の「とと」を、母と父の意にかけた単なる駄洒落句なのか。
「枝に居て」不在の母と父を恋いしと鳴いている。
そんな「ほととぎす」の姿を思い浮かべることも可能である。
いずれにしても、読者が句を読んでどんなイメージを思い浮かべようが、それは読者の自由と言える。
詩人の松下育男氏も、清水哲男氏主宰の「増殖する俳句歳時記」というサイトで、「誰の句だって、読みたいように読んでしまってよいわけです。」と言っておられる。
句を託された読者のそんな風景を、凡兆は「枝に居て」眺めているのかもしれない。
凡兆の高みの見物。
凡兆の高みの見物。