福永武彦の短篇小説「廃市」|滅びの町に住む美しい姉妹
福永武彦の「廃市」を初めて読んだのは、20代の頃だった。
当時は「廃市」という言葉に、虚無的なセンチメンタリズムを感じて読んだように記憶している。
あれから半世紀を経た今では、小説の雰囲気も登場人物も、すっかり忘れてしまっている。
ただ、町の中を迷路のように巡らされた「掘割」のイメージだけが、「思い出」のように残っているだけだった。
改めて読んでみても、記憶が蘇らない。
当時は「廃市」という、私にとってはインパクトの強いタイトルに惹かれて読んだだけのようである。
「廃市」の物語の底に流れているのは、地方の旧家の当主である貝原直之の、「掘割」についての以下の台詞に象徴されている。
「いつの間にか町の人の道楽みたいに縦横に掘りめぐらしてしまいました」また、直之は、町の人々にたいして以下のような見解を抱いている。
「町の人たちも、熱心なのは行事だとか遊芸だとかばかりで、本質的に頽廃しているのです」
「私が思うにこの町は次第に滅びつつあるんですよ」
そう言いながらも直之は、お祭りの芝居では、「遊芸」の達者ぶりを披露している。
町を批判視しながらも、「行事や遊芸」の因襲に閉じられた空間から抜け出せずにいるのだ。
そういう直之だから、妻の郁代や妻の妹である安子、そして愛人の秀との「恋愛関係」からも抜け出せない。
やがて直之は「人生に疲れた」という遺書を残して秀とともに自殺してしまう。
当主の死によって、貝原家は衰退していくことが予想される。
その衰退は、「行事」や「遊芸」に浪費を繰り返してきた「掘割」の町の衰退をも象徴しているようである。
物語は、この町に一夏滞在した「僕」が、美しい姉妹と過ごした学生時代のひと時を回想する形で語られている。
10年経って、社会人となった「僕」が、偶然目にした新聞記事で、その町が火災で焼失したことを知り、昔のことを思い出したのだった。
その「僕」は「青春というものは何んと早く過ぎ去り記憶を消し去ってしまうものか」という感慨を抱いている。
たった10年過ぎ去ったぐらいで、好きになった女性(安子)のことを忘れ去ってしまうものだろうか、と読者は思うかもしれない。
作者はそのことについて、「僕」の「記憶論」を展開している。
長くなるが、以下がその「記憶論」の引用である。
過去の記憶というものは、そこに中心をなす事件があれば、後からその事件に与えた解釈に従って都合よく整頓されてしまうものだ。従って必ずしもその当時の、事実の得られた順序を追って、現実の持つもどかしげな、不確かな、不鮮明な印象のままに、今も形づくられているとは限らない。これは、「語られている過去は、事実ではなく語り手によって再構成された記憶である」ということであろう。
つまり「僕」視点(一人称視点)の記憶である。
それが、いつのまにか「ともすれば僕は最初から悲劇を予想していた、僕はその事件の進行に立ち会っていた、とつい思いがちなのだが、それは記憶がすっかり整頓され、僕がすべてを知る者の眼から過去を振り返っているからだろう」という、あたかも神の視点(全知視点)から過去を見渡すような語りに変わっている。
この視点で、自身の記憶を「美しい悲劇」として整頓し直している。
「僕」は、安子に恋したことが成就しなかった過去を、現在の自分から切り離そうとしているのかもしれない。
直之と、郁代や安子や秀との切ない恋物語も、古めかしい「廃市」とともに滅びてしまった。
10年で記憶を都合よく整頓した「僕」。
そう整頓しなければ、「現実の持つもどかしげな、不確かな、不鮮明な印象のままに」「僕」は、安子に惹かれて「廃市」に取り込まれ、「掘割」の迷路を彷徨い続けたのかもしれない。
※赤文字部分 福永武彦「廃市」(新潮文庫)からの引用