泉鏡花の短篇小説「革鞄の怪」の私の読み方
泉鏡花の小説「革鞄の怪」を楽しむためには、鉄道の旅で偶然一緒になった二人の登場人物の、「過去や現在」を確認しながら読まねばならないと感じた。
そうしなければ、時制の迷路にはまる。
この小説は、八つの短い章で出来ているが、第一章が旅の始まりではない。
第一章には、この二人が第八章で「知己(ちかづき)になった」後に、辿り着いた長野の旅館での事が書かれている。
小説の時制で言えば、長野の旅館での事が「現在」である。
ただ、この章の後半に、語り手である「私」の回想として、「今朝、上野を出て、田端、赤羽ー蕨(わらび)を過ぎる頃から、向う側に居を占めた、その男の革鞄が、私の目にフト気になり始めた」と旅(物語)の始まりで、革鞄を見かけた事が書かれている。
そして「私」は「妙な事を思出したのである」
第二章の最初は、「私」の過去の思い出にさかのぼる。
それは、18~9年前の「秋の招魂祭」の見世物小屋でのことであった。
「目覚ましい看板」を掲げた小屋の前で、木戸番が「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ」と時々声を上げるばかりで、そのほかのことは何も言わない。
多くの読者は、この意味不明な謎の呼び声に戸惑うであろう。
「私」は、その小屋の中に、「大形の古革鞄ただ一個(ひとつ)」だけが展示されていたのを思い出した。
そして今日、同じ列車に乗り合せた旅の男が所持している革鞄が、「色合、格好(かっこう)、そのままの大革鞄」であることに因縁めいたものを感じ、今日は「長野泊りで、明日は木曽へ廻ろう」と行き先を決めるのだった。
それは「たまさかのこの旅行に、不思議な暗示」を感じたからに他ならない。
行き先を決めた時点では、「私」と男とは「知己(ちかづき)」になってはいない。
もちろん、男の行き先を「私」は知るはずもないのである。
「私」は、「怪しげな、不気味な」ことに対して強い好奇心の持ち主らしく、革鞄の中身について、わくわくドキドキしている。
旅の列車のなかで、革鞄が関係する「怪しげな、不気味な」事件が起き、それに対して革鞄の持ち主の男が、奇妙な振る舞いをする。
まるで「革鞄の怪」が、この男に乗り移ったように。
第四章から第八章まで、その事件について書かれている。
ここが読み応えのあるところ。
何度読んでも面白い。
ことの顛末が、錦秋の景色を背景に、怪しく美しく、盛に盛って綴られている。
が、くどくはない。
革鞄に袖を噛まれた美しい花嫁の様子。
男の狂気じみた弁明演説。
演説の中で、明かされる男の素性。
騒然とする車内。
最後に、慎ましくも艶やかな花嫁がとった驚異の行動。
その一部始終を、感嘆しながら観察していた「私」は、つかつかと男に近づき、「知己(ちかづき)」になったのである。
この「私」の回想のなかに、革鞄の男の回想が紛れ込む。
その男の回想のなかで、革鞄の中身が明かされる。
そして物語は、第一章へと、見世物小屋の仕掛けの様に、ぐるりと回転する。
おそらく「猟奇的」な「私」は、革鞄の中身が、男の演説の中で述べられた「生命と斉(ひと)しいものを残らず納(い)れてある」以外にも、何かが居ると思ったのではないだろうか。
なぜなら「私」は、「その中から、怪しげな、不気味な、凄(すご)いような、恥ずかしいような、また謎のようなものを取り出して見せられそうな気がしてならぬ」と思っているからである
男の行き先が木曾から飛騨であることを知った現在の「私」は、その因縁に驚き、好奇の心をふるわせて、この先、男と行動を共にしようと、わくわくドキドキしているのだと、私は感じた。
物語は、第八章から第一章へ回転し、旅館の一室で男は革鞄から「声がします」と「私」に告げる。
読者も一回転して、また「声がします」を読むと、その不気味さが、一層増して感じられるはずである。
これから始まる旅の先で、また奇怪な事件が起こるのではないかという予感をはらみつつ、山深い飛騨の奥地に向かうのである。
このとき読者は、怪しい見世物小屋の呼び声を思い出すであろう。
「さあさあ看板に無い処は木曾もあるよ、木曾街道もあるよ」
この客寄せの掛け声は、過去から未来へとかけられたもののように聞こえる。
さらに、蛇足だが、敢えて書こう。
この掛け声は「さあさあ革鞄(カバン)に無い物は奇想もあるよ、奇想天外もあるよ」とも私(筆者)には聞こえる。
まさかね、泉鏡花先生がダジャレなんて。
※赤文字部分 泉鏡花「革鞄の怪」(創元推理文庫)からの引用