夏河を越すうれしさよ手に草履 蕪村
谷から山稜へ
残雪の山をスキーで歩いて、尾根に辿り着いたときのうれしさは格別だ。見晴らしのきいた尾根から眺める周辺の景色がすばらしい。
尾根で一息ついて、歩いて来た行程を振り返る。
これからの進路を望む。
そして何よりも、残雪期の尾根(山稜部)自体の、広くてゆるやかな起伏がうれしい。
青森市滝沢地区の折紙山周辺の尾根は、山稜部が広くて、ピーク同士の連なりが緩やかなものが多い。
もっとも、山稜部に至るまでは、谷から山頂への急な尾根筋を登らなければならない。
木々に囲まれた尾根の道
山頂に至る急峻な尾根筋も、山稜部のピークとピークをつなぐ緩やか尾根も、カラマツやブナやヒバの林になっている。晴れた日は、林の木々が白い雪の上に、濃い影を落とす。
その白と黒との、モノトーンが心地よい。
幅のある道のようなところを、周囲の景色を楽しみながら、ゆっくりと目的の場所に向かう。
歩くことの楽しさが、徐々に湧き上がってきて、気分が爽快になる。
この道はいつか来た道
「この道はいつか来た道」
北原白秋作「この道」の冒頭の詩が思い浮かぶ。
「この道」とはどこの道なのか、話題になったことがあったそうだ。
「あかしあの花」とか「しろい時計台」とかから、ほぼあそこではないかという候補地があるという。
でも人は、歩みを進めているときに、多くの「いつか来た道」を 感じているのではないだろうか。
実際に通った道でも、初めての道でも、道とはそういう感慨を感じさせる場所なのだ。
私の道
残雪の山歩きは、おおざっぱに言えば、道のないところを歩くことになる。「道なき道」という言い方は、そういう状態を言い表しているのだろう。
と同時に、その登山者の道であることをも示している。
ここに一般的な道はないが、今歩いているそこがあなたの道なのだ、というふうに。
そう思うと、谷からの急峻な尾根筋を登り、山稜部を歩いている行程が、私特有の道であることに気がつく。
尾根を歩いていて、初めての場所なのに、親しみや懐かしさや郷愁を感じるのはそういうことなのだ。
今歩いている場所が私の道であるから。
様々な私自身を見つける旅
そこには、人生の長い行程を歩いてきた様々な私がいる。今の生活では、見えなくなった私がいる。
これからも歩いていくであろう様々な私がいる。
そんな気がする。
どんな場所を歩こうと、人は自分の道を歩いている。
だから、未知のその場所に、登山者は旅人のように、親しみや懐かしさや郷愁を感じるのだ。
越すうれしさ
夏河を越すうれしさよ手に草履与謝蕪村
この蕪村のうれしさは、私にもわかる。
涼しい夏河を越えるうれしさは、残雪の尾根を越えるうれしさに似ている。
河の向こうに何があるのか。
どんな風景との出会いがあるのか。
河の中を歩いているとだんだんとハイな気分になってくる。
そして、ハイになっている自分と出会う。
未知の場所に未知の自分がいるような感じ。
未知の自分に郷愁を覚え、懐かしさが湧いて出る。
それが、うれしい。
手に草履を持っているから、河の中で一息ついているのだ。
ちょうど尾根で一息ついている登山者のように。
晴れた日に、河の中で旅に浮かれている旅人。
そんな感じの句であると思う。
まねをして。
雪尾根を越すうれしさよ手にストックとシルバーコンパスとデジカメと
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