新緑の森と苔清水の流れ

春雨のこしたにつたふ清水哉
松尾芭蕉

この句の前書きに「苔清水」とある。
「苔清水」とは、岩に生えた苔の間を流れる清らかな水のこと。

奈良県吉野郡吉野町吉野山、西行庵の近くに「苔清水」という名水がある。
「奥千本苔清水」とも呼ばれている。

芭蕉は、西行庵を訪ねる途中で、「苔清水」に寄って、この句を詠んだのだろう。
「春雨」と「清水」が、この句に、みずみずしい印象を与えている。
何か、清らかなものを表現しようとした芭蕉の気持ちが、清水のように、読む者に伝わってくる。
「句」を読むとは、その意図を汲むことなのかもしれない、などと思ったりして・・・・。

「こした」とは、木下(こした)、木の下のこと。

春雨は辺り一帯に降るから、「こした」は一本の木の下ではなく、森の木々の下というイメージなのだろう。
春雨の降る頃、森は新緑に萌えている。

青々とした吉野山の新緑の森。
春雨は、森を濡らして、その若葉の緑をいっそう鮮やかにする。

その森の下をつたって流れる苔清水。
静寂と清浄に支配されたような地域。
伊勢神宮が持っている神々しい雰囲気とは違う、自然森の神聖な空気。
西行を慕う芭蕉にとっては、「望郷」に近い思いを抱いた森の中だったのかもしれない。

そういう西行と芭蕉の関係や、清水のある場所が西行庵の近くであるという「情報」無しでも、この句は十分楽しめる。
この十七文字の句だけをじっくりと読めば、清浄なイメージが広がってくる。
新緑の森と清水の流れる風景。
それを眺めている芭蕉の姿。

「苔清水」で詠まれた句は、その場所にこだわることなく、自由に飛びまわって、私たちの前に現れる。
たとえば八甲田の山中においても、似たような清水の情景がある。
すると、この句は、その場面にぴったりと当てはまって、句としての独自のイメージを広げる。
森閑とした森の下を静かに流れる清水。
やがて雨が止んで、清浄な空気に包まれた中、変わらずに流れ続ける清水。

私たちは、私たちの記憶にある清水の情景を思い起こす。
芭蕉が、そこへ私たちを誘導する。
そしていつか、吉野山の西行庵に近い「苔清水」の写真を見たりして、「ああ、なるほど」と頷く。

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