朝露や鬱金畠の秋の風
朝露は消えやすいので、和歌の世界では儚いものの例えに使われてきた。
現代でも、「露と消える」という言い方をする。
夢が破れるとか、志なかばで倒れるとか、計画がとん挫するというような意味で使われている。
現代でも、「露と消える」という言い方をする。
夢が破れるとか、志なかばで倒れるとか、計画がとん挫するというような意味で使われている。
朝露や鬱金畠(うこんばたけ)の秋の風
野沢凡兆
「鬱金」とは、ショウガ科ウコン属の多年草で、江戸時代に薬草として用いられたという。
「鬱金」の「鬱」は「鬱蒼」の「鬱」で、植物が青々と茂っている様を表している。
写真で見ると、ミズバショウに似た大きな葉が、畠一面を埋め尽くしている様子は、まさにウコンの「鬱蒼」である。
「鬱金」の「金」は黄色のことで、かつてウコンは黄色の染料に使われていた。
凡兆とつきあいのある京都の薬問屋で、ウコンを栽培している畠を持っていたのだろうか。
あるいは、知り合いの農家が、ウコンを栽培して、薬問屋に卸していたのか。
凡兆の生業は医師。
「鬱金」の「鬱」は「鬱蒼」の「鬱」で、植物が青々と茂っている様を表している。
写真で見ると、ミズバショウに似た大きな葉が、畠一面を埋め尽くしている様子は、まさにウコンの「鬱蒼」である。
「鬱金」の「金」は黄色のことで、かつてウコンは黄色の染料に使われていた。
凡兆とつきあいのある京都の薬問屋で、ウコンを栽培している畠を持っていたのだろうか。
あるいは、知り合いの農家が、ウコンを栽培して、薬問屋に卸していたのか。
凡兆の生業は医師。
朝に凡兆が、そのウコン畠を訪れると、ウコンの葉に「朝露」がついている。
朝日にキラキラと輝いている。
その露を、さっと退かせた「秋の風」。
爽やかな印象の句であるが、どことなく儚さがつきまとう句でもある。
「秋の風」と句を結んだ時、凡兆の脳裏をよぎった儚いこととは、何だったのだろう。
医師である凡兆は、こんなにたくさんの薬草を目の前にしても、人の命に対する儚い思いは消えないものだと思ったのだろうか。
あるいは、医師として幾人もの死に立ち会ってきた凡兆は、薬草など所詮虚しいものだと思ったのか。
そういう思いが身に染みる今朝の「秋の風」であるなあという凡兆の感慨。
季語を調べてみると。
「朝露」は秋の季語。
「鬱金」は、「鬱金の花」で秋の季語。
「秋の風」は、もちろん秋の季語。
ということは掲句も、三つの季重ねに近い。
秋の色が濃厚な句である。
この句も、三つの季重ねの句「肌さむし竹切山のうす紅葉」同様、「猿蓑 巻之三 秋」に収められている。
そして「猿蓑 巻之三 秋」には凡兆の秋の句が11句収録されている。
芭蕉は5句、去来は7句。
凡兆は、よっぽど秋の句が得意のようである。
「朝露や鬱金畠の秋の風」の句を繰り返し読んでいると、以前記事にした「物の音ひとりたふるる案山子かな」の句が思い浮かぶ。
「案山子」の句も、「猿蓑 巻之三 秋」のなかの句。
このふたつの句は、儚さや侘びしさという感慨で呼応しているように思われる。
そう思うと、その思いに捕らわれて、このふたつの句に描かれた鮮やかなシーンが目に浮かぶ。
そうか、あの案山子はウコン畠のなかに立っていたのか、と。
作者の意図とは別に、別々に出来上がった句がひとつのドラマを作るということもあるのだ。
もっともこれは、句を読む側の勝手な思い込みに過ぎないのだが。
■野沢凡兆の俳諧のページへ
朝日にキラキラと輝いている。
その露を、さっと退かせた「秋の風」。
爽やかな印象の句であるが、どことなく儚さがつきまとう句でもある。
「秋の風」と句を結んだ時、凡兆の脳裏をよぎった儚いこととは、何だったのだろう。
医師である凡兆は、こんなにたくさんの薬草を目の前にしても、人の命に対する儚い思いは消えないものだと思ったのだろうか。
あるいは、医師として幾人もの死に立ち会ってきた凡兆は、薬草など所詮虚しいものだと思ったのか。
そういう思いが身に染みる今朝の「秋の風」であるなあという凡兆の感慨。
季語を調べてみると。
「朝露」は秋の季語。
「鬱金」は、「鬱金の花」で秋の季語。
「秋の風」は、もちろん秋の季語。
ということは掲句も、三つの季重ねに近い。
秋の色が濃厚な句である。
この句も、三つの季重ねの句「肌さむし竹切山のうす紅葉」同様、「猿蓑 巻之三 秋」に収められている。
そして「猿蓑 巻之三 秋」には凡兆の秋の句が11句収録されている。
芭蕉は5句、去来は7句。
凡兆は、よっぽど秋の句が得意のようである。
「朝露や鬱金畠の秋の風」の句を繰り返し読んでいると、以前記事にした「物の音ひとりたふるる案山子かな」の句が思い浮かぶ。
「案山子」の句も、「猿蓑 巻之三 秋」のなかの句。
このふたつの句は、儚さや侘びしさという感慨で呼応しているように思われる。
そう思うと、その思いに捕らわれて、このふたつの句に描かれた鮮やかなシーンが目に浮かぶ。
そうか、あの案山子はウコン畠のなかに立っていたのか、と。
作者の意図とは別に、別々に出来上がった句がひとつのドラマを作るということもあるのだ。
もっともこれは、句を読む側の勝手な思い込みに過ぎないのだが。
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